群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

青い本逃避行

 

 

梅雨なので青い本を集めてみた。

軽い一言コメントとともにどうぞ。

 

 

貝の子プチキュー 茨木のり子

貝の子プチキュー (日本傑作絵本シリーズ)

 内容をほとんど忘れたが、文章が詩人らしい表現だなあと思ったことだけ覚えてる。

深い群青色が涼し気。

 

 

 

いたずらこねこ

いたずらこねこ (世界傑作絵本シリーズ)

 青、黒、白の3色のみで構成されているところに芸術性を感じた。

 みどりがかった青というのも皮肉れていて良い。ちょっとプランクトンとか居そうな色合い。

 

 

 

銀の匙 中勘助

銀の匙 (角川文庫)

 はじめて日本語が美しいと思えた文豪さん。後にも先にも。

 

 

 

銀河鉄道の夜 宮沢賢治

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

 当然よね。

 

 

 

宝石の国 市川春子

宝石の国(2) (アフタヌーンコミックス)

 SF、仏教など。すり潰され、変容していく純粋さ。

 

 

 

性別「モナリザ」の君へ。

性別「モナリザ」の君へ。 4巻 (デジタル版ガンガンコミックスONLINE)

 モノクロ印刷に青色のアクセントを施している、少し特徴的な印刷。

揺れる性。変容過程に生じるぞわぞわ感( 不快感 )こそがエロティシズム!

 

 

 

イクストランへの旅 カスタネダ

イクストランへの旅(新装版)

 インディアン内からも変人扱いを受ける変人インディアンとの奇奇怪怪なスピリチュアル体験。インディアン哲学。

 

 

 

八本脚の蝶 二階堂奥歯 

八本脚の蝶 (河出文庫)

尊い

 

 

 

 

重力と恩寵 ヴェイユ

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

 聖書。

 月長石のような冴え冴えしたまっすぐな透明さ。

 

 

 

ヴァージニア・ウルフ短編集

ヴァージニア・ウルフ短篇集 (ちくま文庫)

 意識の流れ。主体と客体の境界線がなくなるとき。

 

 

 

 

うみのたまご ボストン

海のたまご (岩波少年文庫 (2142))

自然で悟れ。

海の描写力よ。

 

 

 

グリーン・ノウ物語 ボストン

グリーン・ノウの川 (グリーン・ノウ物語 3)

ものにエネルギーのあるという確かな実感。

 

 

 

ラジオ形式でも青い本逃避行。

 

 

 

宝石の国

 

 

数年前にアニメを観たときは脳無しの私には高度すぎた作品があった。

しかしこの作品は( 数話しか観ていなかったにも関わらず )

その後私が心理学を学んでくなかで

目に見えない心のメカニズムを掴んでいく重要な足掛かりを残してくれていた。

 

宝石の国 」だ

 

宝石の国(10) (アフタヌーンコミックス)

いつかきちんと読みたいと思い続けていたら、ツキが巡ってきたのか優しい人が最新刊まで貸してくださいました。

10巻まで読んだので今回は現時点でのレビューを書きます。

 

とにかく能無しだった私には分からなかったこと、

宝石の国がよめなかった理由は。

フォスを自分に重ねてみることが耐えられなかったからだった

あとで考えてみると肉体と魂を別々にしているとことか主人公がめちゃわがままなとことか、すごい分かりやすかったし参考になったのである。

私は

” 私は勿論、魂と肉体が一致した人間であるし、生まれて間もなく人格者だったに違いない "

などととんでもない思い違いをむざむざと起こしていた。

 

それは幻覚なのだった

ほんとうの私はフォスなのだ、というよりフォスにならなければならない

 

 

宝石の国 」の世界観には無慈悲さ、あっけらかんとした( 鉱物らしさ )があり、

低俗レベルでの " 情念 " がほとんどないので( そのかわり最強の情念は描かれる…例えば諦めが悪くどうしても特定の事象に引き寄せられてしまう宝石たちや、月人のうち特別の地位にいる人が地上に降り立つと鬼の形相になっていることなど )

無駄がなく核を貫き続けている。

そのため、精神のエグさはエロティシズムに繋がるという構造がよりはっきりとしている。

間髪入れずすり潰されていき、グロテスクで美しい作品だ。

 

 

主役のフォスフォフィライトは、物語が進んでいく毎に

必要に応じて次々に身体( インクルージョン、精神面も )を挿げ替えていき、時には誰かの面影を取り込み、ますます複雑な結晶体へと変容していく。

 

純粋な人ほど、生きていく過程で自分をすり減らしていく感覚は、誰にでも身に覚えがあることではないだろうか?

 

 フォスの体験は何となく「 ヨブ記 」に通ずるものがあるような気がする。

この物語ではフォスが唯一、魂( 片目が月の成分 )と肉( ナメクジに取り込まれた )と骨( 彼の祖先は元々骨 )の3つを兼ね備えた人間になれた者であり、誰よりも清く正しい。

※肉について・・・肉族( ナメクジ )が海≒無意識に取り残されたことは興味深い。いったい肉体という檻を意識化できている人間はどれほどいるのだろう。

そのような「 肉体 」をもう一度高次元で再生しなおす( ナメクジに一度取り込まれ、採掘される )ことでフォスにとって「 肉体 」がやっと存在する概念となる。

※魂について・・・フォスの片目は月に捉えられ、( 月の成分でできたものになり )

フォスの視点の半分は地球の外側( 彼岸、冥界 )に中心を置くようになった。これで彼は世界を陰陽の両方で眺めることができる者になる。

 

人が魂や肉体をひとつにするとき、

無意識から意識へ目覚めるとき、

まるで水から浮き上がったような感覚になる。

フォスのように何度も水に潜ったり浮き上がったり

冥界( 月 )へ行ったり帰ったりすることで、頭が冴え冴えとしてくる。

 

柔軟に変容し続け、己が擦り切れ、一本の細い繋ぎ( ≒膠≒この作品では骨 )となっても保ち続けるフォスはどこまでも透き通っていて

恐らく彼が行きつく先は地獄なのだろう。

 

よく考えたら斬新な作品だ。

これまで変容を促す石( 賢者の石 )はあくまで力を秘めた道具として登場するのが常だったはず。

宝石の国 」は、本来なら意思を持って動かないはずの石を主役に置いたわけだ。

変容そのものを描くには一番シンプルな発想だったのかもしれない。

※石は石でも金剛先生が整形した時点で既に石そのものではなくなり、人間へ戻るスタートはきられている。

 

 

ここからは蛇足なので暇な人だけみてくださいな。

密かにカンゴーム推しだった私は、月へ行ってからの彼の変貌ぶりに心乱されて

王子とカンゴームの結婚という流れには頭の整理が追いつかなかった。

のでその整理を兼ねてここにゴチャゴチャと書いてみよう。

 

物語に「 結婚 」というモチーフが出てきたときに作者が読者へ期待している効果とは ” 相反するものの一致 ”というメタファーを読み取ってくれるか感じてくれるかすることである。

 

宝石の国 」では、人間を構成するのは魂、骨、肉体だった。

錬金術では骨が膠に相当し、後に賢者の石( 宝石 )がその変容を促す役割を担うようになる。

ここまで考えると、普通の流れでいけば「 人間になりたい 」願望を抱くので

魂( 月人 )と肉( ナメクジ )が骨( 宝石 )の力を介して結婚( 融合 )する展開になるのだが

王子の場合、

視点が肉体を離脱した魂( 月人 )なので、当然少し上の段階の願望になる。というわけで月人は恐らく人間には戻りたくない。

とすると、無になりたい王子としては石に惹かれるのは、わりと理に適っているのである。

それにしてもカンゴームの願望は私には少し複雑に思える。

彼は石なのだから( わりと自我を持っているけど )、石が無になりたいと言うのはなんだか可笑しいことのような気がする。

すり潰されてしまえば、無になれそうなものではないか?

でも王子と一緒でなければ意味がないと。うん、複雑だし貪欲だな。

 ※人が変わるのは、石が変わることと同じ。 宝石が意思を持って変容するのは、人の心が変容する過程と同じ。

カンゴームの変容は、作者が描きたいことと一致している。

 

 

しかし王子とカンゴームの恋愛は無を目指す恋愛であり、センスはかなり良いのだ。

自己の拡大のための恋愛ではなく、自己の放棄のための恋愛である。

 

 

心の故郷はファンタジー

 

 

「 1つのことをすごく探求するね 」とよく言われることがある。

自分でもそうなのだと思っていたが、なんとなく腑に落ちなかった。

飽きやすい私はそんなに長いときをかけて1つのことにかまけていることが無かったはずなのに、結果的には幅広く深いところだけを知っていることになっている。

 

私はここで言われている" 探求 "はしていない。

「 見え方 」の違いだろう。

通常人は物を見るときには" 表面 "を見ている。

私はこのとき恐らく、初めから" 内面 "を見ている。

だから初めから深淵を覗いていることになる。

私には表面が問題でない。表面を突き破り、透視してしまう。

こんな見方をしてしまっている。

 

" 探求 "と言ったときに想像するのは

表面から内面へ降りていくイメージだが

私には一度見ただけで底がうっすら見えている。

内面から表面がやっと浮き出てくる。

だから私の場合は、輪郭が最終的に出てこなければならない。

 

 

人間には肉体的な故郷とは別に、霊的な故郷がある。

霊的なとは魂的な、精神的なという意味で。

人は誰しも詩に包まれていることで心は生き永らえている。

私にとっての心の故郷は「 ナルニア 」だった。

それがなければ、死んでいた。

人は肉体だけであっても心だけであっても生きていけない。

 

 

いつも傍らにはファンタジー( 物語 )があった。

そのおかげで救われたけれど、私の物の見方が普通と逆さまになったのは、主にこの影響だったのだろう。

 

絶対にファンタージエン
行けない人間もいる。

行けるけれど、そのまま向こうに
行きっきりになってしまう人間もいる。

それからファンタージエンにいって、
また戻って来るものもいくらかいる、

君のようにね。

そして、そう言う人たちが、
両方の世界を健やかにするんだ。

 

ミヒャエルエンデ「 はてしない物語 」より

 

 

 

最近は年々ストーリーがどうでもよくなっている。

登場人物とか出来事とか。

そんなのは記号に過ぎない。

そうではなく、永遠のなかにある一瞬についての散文が読みたい。

 

1級の作品にはストーリーに動きがほとんど無いと、どこかで読んだ気がする。
ヴェイユの散文には
「 二流の作品は自己の拡大、第一級の作品すなわち創造は自己の放棄である 」

とあった。

 

 

このままいくと私は聖書や詩だけで満足するようになるかもしれない未来がみえたのだが、それらの内容を理解するにはまだまだ修行が足りていなかったのであった……。

 

 

死んだ魚の目

 

 

「 私も昔、先輩に教えてもらったことがある。

干潮は人が死ぬ時間、満潮は子どもが生まれる時間だって。

患者の中に危ない人がいたときは、( 付近の海の )干潮の時間帯を調べてその時間までに仕事を片付けるようにしていた 」

 

看護師だった母に、私のお気に入りの詩を紹介したときの返答である。

 

どうしてそれを私が小さいときに話してくれなかったのか

 

私と

人と

地球の

生命の

関連性を

 

私が聞きたい話はそういう話だった

そういう話だった

どんな本よりも

どんな人よりも

私はあなたから物語ってほしかったに違いないのに

 

どうして今なのか

息切れしながら

待ち望んでいた物語を

今さら

 

 

世界における水分の絶対量は一定しているので、だれかが涙を流すと、そのぶんだけ、海の水が少なくなるのである。

 

海水も涙の成分は、ともに塩素とナトリウムとH2Oをふくむ。

なめると「 しおからい 」のは、そのためである。

 

ということは、涙で魚を飼うこともできるという証拠である。

だが、涙で一尾のカレイを飼うためには、どれ位泣かなければならないか、ということは、まだ学問的には立証されていない。

 

満潮は、ひとがだれも涙をながさぬひととき__世界に海水があふれ、

 

干潮は、ひとがみな涙をながすひととき__世界に海水が涸れはじめる。

 

( 以下略 )

 

『 かもめに関する序章 』寺山修司

 

 

寺山修司少女詩集 (角川文庫)

 

 

国内と海外のファンタジーの違い

 

 

海外( といっても自分でもどのエリアのことを言っているのか定かでない。恐らく北欧辺り )のファンタジーと国内のファンタジーではキャラクターの捉え方が違う気がする。

 

国内ファンタジー、特にアニメなどはそうだが……の、ファンがキャラに異様に感情移入する様はそれまで海外の児童文学ばかり読んでいた私には馴染みがないことだった。

 

海外、国内とはいえ色んな段階の作品があり、広く捉えれば境界線は曖昧になるのだろうが……

 

私にとっての国内ファンタジーの気持ち悪さは、作者・読者、両者の特定のキャラクターに対する思い入れの強さが露呈しているところだったのもしれない。

キャラに感情移入しすぎると、キャラ主体になり、物語が背景へ退いていく。

 

 

変わって私にとっての海外ファンタジーは、人間を、魂と肉体を完全に切り離して描こうとするので

作者視点( 神の視点 )では、

キャラを " 物語上の駒でしかない "という認識を

ある次元で持ちつつ描くことができている。

つまりキャラを人形として描ける、作品上の必要不可欠な役割を持たせて描くことができる。

 

日本のファンタジー( 広すぎてあれだけど )はキャラを重視しすぎている気がする。

もちろん海外のファンタジーでもキャラクター性は大事だが、それは物語があって必要不可欠に現れてくる性格だったり癖であって、始めに趣味趣向が詰まったキャラが与えられているわけではない。

 

 

価値観の違いかもしれない。

人物主体は実存主義に似ている。

しかし現代は " 敗北者 " の物語が待ち望まれていると言われて久しい。

 

私は使命を持って生まれた、使命を持って?

" 使命 " というと聞こえがいい。

" 空席を埋めるため " と言えばもっと真実に近くなる。

私は物語の駒でしかない。

私は演じ続ける。

空席を埋めることを要求され、諭され、

それに受動態でいるのは卑怯ということになっている。

 

 

《 追記 》

とかいいつつ、アニメが大好きな私もすっかりキャラクター重視の目線も併せ持つようになりましたとさ。

キャラクター愛もいいものです。

一応フォローまで。

 

 

隠しコマンド

 

 

inside 」の、隠しコマンドを全て集めて暗号が解けたら迎えることのできる隠しエンディングがとてもお気に入り。

暗号が解けた少年は

自分のスイッチを切って自己増幅を永遠に終わるの。

 

 

この世には隠しコマンドが至る所に散らばっている。

それらを紐解いていくことは真実に近づいていくことでもある。

無意識的な人間ほど神に近い。

反対に、真実に近づくほど神は遠ざかっていく。

それは初期設定を乗り越えようともがくことだから。

 

でもこれはどの次元の話なのだろう。

 

もっと広く捉えれば、初期設定を乗り越えることさえも

あらかじめ神によって定められていたことで。

 

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

 

 その辺のことについては先週読んだバタイユの「 エロティシズム 」で示唆を得た。

禁止と侵犯について( 禁止は侵犯が前提としてある )。

思いがけず、「 輪るピングドラム 」とも繋がる内容だった。 

 

 

 幾原監督といい、Clampといい、

こういう人たちは完璧に内面描写だけで物語を形作る。

それが可能なのは

彼らが魂と肉体を完全に切り離して捉えているからだ。

 

 

魂にとっては肉体は檻のようなものだ

肉が欲することと魂が欲することは違う

 

 

肉体と魂をひとつにした後、私はもう一度

魂を肉体から切り離したいと思った。

そう思うのは、完全に一体化していなかったからなのかもしれないけれど。

 

けどまあ、これからはいつもいつも肉体の中に魂を宿していなくてもいいわけだ。

無意識的に魂を飛ばしていたことはこれまでも幾らかあっただろうけど( というよりいつも肉体を離れてフワフワ浮いていたと考えた方が妥当 )

意識的に魂を宇宙空間へ飛ばすことも今後は可能になってくるのではないだろうか。

 

 

八本脚の蝶 (河出文庫)

八本脚の蝶 (河出文庫)

 

 現実から目覚めるには

目覚め続けるには

どうすればいいのか

 

私は残念ながら二階堂奥歯さんほど物語を早く読めるわけではないので

" 自分という本 " を " 私 " より先に読める人を求めているわけではない( 私は読まれてばかりだ )。

というかそもそも( 私のほんとうを )読んでくれる人なんていないのだと諦めているのかもしれない。

 

だって私は人を人として愛せない。

人を人として見ないことでやっと人を愛せるから。

私の目下の目標は、魂と身体を切り離して光になること。

私はどうしたって地獄に落ちながら光になることを選んでしまうだろう。

そのために真逆のことを突き詰めているし、それを認めたいとも思う。

 

 

 

 少年よ我に帰れ / やくしまるえつこ

 

 

清く正しく美しく

 

 

神殿等に飾られるものに、性器を模したものが結構あったりするのは、生命の根元をエロスに寄って突き詰めていけば必ず性器に到達するからだ等々と話していたら、とある淑女が「 発情してるのか 」と私に仰られた。

 

これはアニメなんかを観て「 ハレンチだ 」と言うのと同じ心理なのだろうか。

こういう人たちはエロスの段階が未成年のまま止まっているものと見受けられる。

皮肉にも件の淑女には娘がいたが、このような紳士淑女方は自分たちがどのようにして子を授かったのか本気で分かっていないのか、はたまた一夜のことは何処か隅へ封印して忘れ去ってしまったのか、いささか疑問である。

貴方方は子どもがどのようにして産まれると思っているのか。

これが発情だというのなら、すべての芸術、及び宗教学や心理学を学ぶ者はすべて発情しているといえる。

 

 

テッドチャンの「 息吹 」の一節に次のような文章がある。

「 わたしたちは、好むと好まざるとにかかわらず、性的な存在になるのです 」

性と向き合わず、それが無かったことのようにすっ飛ばしして、どのような悟りが開けるというのか?

 

私が好んでBLを嗜むのは、性の多様性、性の解放に溢れた世界だから。

最近読んだ山本アタル先生の「 清く正しく美しく 」は、私自身が求める理想のオメガバースに近かったと思う。

 

清く正しく美しく (ディアプラス・コミックス)

清く正しく美しく (ディアプラス・コミックス)

 

 

オメガバースものは特性上、淫乱な世界観になりがちだが、

そこではセックスがほとんど意味を失っているかのように見える。

むしろ性のサガを皮肉っている。

 

 

頭に光輪を頂いた千景( 受け )のイラストで、物語の枠組みが何となくわかった気がする。つまり、

受け( Ω )をエロスに従順化した、無意識的な神として、

攻め( α )を暗い欲望に気付くサタンとして描いたのだろう。

 

Dear+(プラス) 2020年 06 月号 [雑誌]

↑Dear+の表紙の悪魔っぽい大翔( 攻め )

 

BL漫画には作家さんの性の段階が多大に表れる。

私が求めるのは性の暗い部分を照らし出したBLだ。

性のサガを真正面で描く物語は、一見して淫らだが、中身は清らかな魂が描かれていると私は思う。

 

 

アトモスフィア - Atmosphere / はるまきごはん feat.初音ミク