半月滝修行

こんにちは。
諸事情で滝を描いていました。

写真だとそもそも存在しなかったり、見えづらかったりで
岩とかチューリップとかほぼ私の想像で描くことになりましたが、色んな色を使って誤魔化しましたw
個人的には雲の雰囲気と右端の水周辺はよくできたかなーと。
専用ソフト(3Dペイントwwまじで描きづらかったww)で見るよりも緑が強くてびっくりしたけど全体の印象が明るくなったのでOKです。

サインは即興で考えました。羽にみえればいいよ。





ついでにサインなしと、今まで描いてきたデータも自分用に載せておきます。
では。

愛せない

人は自分が捨てるものだけしか、所有しない。捨てないものは、わたしたちからのがれ去る。この意味において、何ものであろうと、神を通すことなしには所有することができない。

シモーヌ ヴェイユ重力と恩寵 」より 

 

「あなたがそこに存在することを願う 」

 

人を愛することは、存在しない人を愛するということ。
それは無を愛することで、真空を愛することに似ている。

R4.7.27 Twitter log

皆が寝静まるまでに小話を
私は元々葬儀屋だった。
だったというか、なる手前で自殺しそうになってやめた。

未だにやめなければ良かったと後悔が押し寄せるときがある。
その度にどう考えても私には無理だったと思う。

当時はよく分かってなかったけど今思えば本当に好きな仕事だった。
葬儀屋は人の死に直接的でありながら観念的に関わり続けることができる最も簡単で近道の職業に思える。

初めは
死から遠ざかってばかりいたから、強制的に近くへ行ってみたくて葬儀屋を選んだ。

毎晩毎晩繰り返される通夜。
人の悲しそうな顔、すっきりしたような顔、泣いたり笑ったり無表情だったりする顔、黒い喪服の列、どうでもいい供花(喪服に花粉が付かないように雄しべと雌しべを箸で取る作業は楽しい)、宗派によって長さが変わるお経、毎晩のお経、そこら中に染み付いている香。
人の死なんて何とも思わないと思っていた。

そう思っていたのに
毎晩それを繰り返していると何かが分かりかけたような気がした。何か、人間的な。

哲学書などいちいち読まなくても、あれを続けていたら全てを感覚的に理解できた気がする。

当時ペアになってくれた先輩はとても素敵な方だった。
毎晩棺に入れられて焔に焼かれる夢をみるような人だった。
素敵すぎてそばにいるのが辛かった。

およそ新卒相手に対するものとは思えないような負担ばかりかけられる毎日だったが
ある意味自分と近い人たちが集まっていた場所でもあったように思う。

あれから数年。
未だに傷は癒えないけど、こうして呟けているということは少しは自分の中でも整理がつきはじめているのかな、とか。

日記へ(2022.04.23)

『精神的に落ち込んだときって具体的にどういう症状がでるのかな?』
『症状……そうですね……』

まず

息ができなくなっている

ということに後になって気づく


『それ、いつ終わるの?』
はっとして顔をあげる
『何がでしょう』
『カウンセリング』

無邪気なのか皮肉なのか
対立する2つの間をまとめるためにはこういう種類の人間も必要なのかもしれない。

関心がないのかあるのか面倒なことには関わりたくないけど情報として蓄積したいという顔。義務的な。少し呆れたような。この状況を楽しんでいるとも受け取れる。

『一生続くと思います』
『使えるものは使っとこう、みたいな?』
『必要ですから』


大丈夫
まだ息はできている

微かに

日記へ(2022.03.19)

今日はカウンセリングだった。血液検査の結果も出ていたのでその紙も受け取る。
肝機能、正常。
血糖値、正常。
脂質、正常。
腎機能、正常。
正常、正常、正常……。
数値は、すべて異常なし。


健康そのものです、前回から一ヶ月経ちましたけど、その後どうですか
花粉の時期だからか、目が一段と見えにくいです
それはますます本が読めなくなるね
ええ、毎日、ぼんやり過ごしています


この前たまたま聴いていたキャスで印象に残った言葉

読書は嫌ですね。読みますけど、本当に嫌。
いつまでやってるんだろう俺って思います。
音楽はそれがないんだよな。いくら聴いても嫌にならない。
音楽には具体性が無いんです。
もっと目に見えないところで情動が発生するので、
これは私にとってプラスに働くんですけど。
言葉を読むと、どうしても意味が浮かんでしまう、その意味が繋がって
しまう、連想してしまう、過去を未来を引っ張り出してしまう。
ぐるぐる動くんです、それが楽しいんですけど。
結構切実なところまで読み込もうとするんですよ。
それがここ最近どんどん捗らなくなってきたんですよね。

逃げ場が山ほどあって、とても安泰な精神状態のなかで
安穏と暮らせる状況がもしあったとして
私は本当に本を読むのだろうか。
世界が何がどうあろうと元々私はどうでもいい質の人間なので。
なるべく外界とは線を引っ張って外は外内は内でその内を大事に
するタイプですから、内が充実しているのであればなにも本を読まないだろうなと
本を読むことができるっていうことを自分では知っていても、
あえて読まないという方向に……分かんないですけど、
それでも読んでしまうかもしれないですけど。
今は本を読んで『しまう』んです。

neveuさんのキャスより


音楽は目に見えないところで情動が発生する……らしい。
音楽で情動が発生……してるのかな。
微かには感じるけど、文字以上にグロテスクなものが自分には感じられない。

目がこんなことになって以降、常に意識がぼんやりしている。
自分の読書生活がどのようなものだったか……。

無意識に感情をシャットダウンしているので
現実では驚くほど鈍感なのに
痛みだけ蓄積されていて
本の中でようやくそれが解放されて
日々の輪郭が
グロテスクなまでにはっきりと現れて
色んな感情を起こすことができた

生きている実感を得られた


でも最近思うんです。自分は別に生きる実感が欲しかったわけではなかったなって。
一種の麻薬みたいなものです。
読むしかない。
本は自分にとっては、バリケードの代わりでしたから。
読みたいというより、読まざるを得ない、そう、読んで「しまう」んです。

日記へ(2022.03.11)

見え方に応じて変えられるように2つ持っている、度が弱い眼鏡と強い眼鏡を交互にかけかえてみるが、強くしただけ自力で表面に膜を張っているのではないかと思えるくらいには対象物との焦点が微妙に合わない。目を瞬かせても擦ってもぼやけてしまう。
いつまでも慣れない
この世に。


『恥を知らないよね』と人から笑われた。何にも分かっていない。私は
生きていることが恥ずかしい人間なのに。

『母親を許さなくていい』と言ってくれた人が
人生の過程は、自転車に乗ることと似ていると話していたのを思い出した。

始めはどうバランスをとればいいのか分からない、でも徐々にゆっくり慣れて、いつの間にか乗れるようになっているのだと。
その過程が、人よりはやい人とゆっくりな人と。

外面上は平和にしていても、許したことにしなくていい


頭がしびれて何も考えられない。

日記へ(2022.03.08)

本が読めなくなって一年以上が過ぎた。一番大事にしていたものが奪われても人生は非情に続いていくので……。

日々の記録のタイトルを日記へにしたのは、昔大好きだった物語に出てきた、漂流中の船酔いをやり過ごすために少年がつけていた日記のタイトルがDear diaryだったことから由来している。


日記へ
今日も眼が霞んでよく見えなかった。
視界がぼやけるので変に力が入って肩も首も痛い。
何も見たくないけれど、生きながらにして見えないというのは大変に不便です。


生活をやり過ごしながら、頭の中では昨日書いた日記のことをぼんやりと反芻している。
自分が自分に向けた言葉だけが正気を取り戻してくれるから。

噛み合わせがどうとか……。
下の歯を隠したい、足を一歩踏み出すのに戸惑う、舌を引っ込める

共通して内側へ閉じこもるような自閉症状。
なるほど。


日記へ(2022.03.07)

別に毎日書く必要はないのだが、これで3日目になる。
3日目にして特に書くことがないので、歯の話でもしようか。


永久歯が生えなかったところに入れ歯を一本入れているのだが、私は噛み合わせが通常よりかなり深く、長くて2年ほどで噛み割ってしまう。
前回は作って1カ月ほどで割れてしまい、うんざりして半年ほど放ったらかしにした後、重い腰を上げて歯医者に行ったところ、また噛み合わせに関して指摘があり、そのときおぼろげに過去を思い出した。

その記憶によると、私は自ら噛み合わせを深く噛みしめるように矯正したようである。
小学低学年のある時期に、何のきっかけもなく急に、口を閉じた時に下の歯が隠れるくらいにしっかり接着しなければという脅迫観念にとらわれた。

たぶんそのとき毎日のように歯をずらして深く嚙合わせることで自力で矯正させたのだと思う。そんなことがあるのか。
ユングの著にも似たようなことが書かれていたような気がする。どのような処置を施しても舌を喉の奥まで引っ込めてしまう少年の話。


それに関連して思い出したこと。同じ時期に歩き方が分からなくなった。
一歩足を差し出す度に、どのように浮かせて、どのくらいの幅で、どの位置に着地したら良いのか、急に分からなくなって混乱したのを覚えている。
今まで自分はどのようにして自然に足を運ばせていたのか。歩く人を目を凝らして観察しても分からず、しばらくはよろけながら歩いていた。


どのような処置を施しても自力で変形させてしまう。
たとえば私の身体は風船みたいなもので、外界の圧が高ければ萎んでしまうか、抵抗を続けようと膨れ上がってしまう。そして、いつかパチンと。


繋ぎ目

最近よくデジャヴを感じる。
そりゃそうだとも思う。
私が今ここでしていることは
今まで何千何百何億回繰り返して来たことで。

私が生まれて今このときまでに起きたことは
ぜんぶ一瞬の間に同時に起きたことだから。

カインとアベル
カインの額の印は、人々がカインを弟殺しの罪で殺してしまわぬように
神がつけた印。

この印は
カインに罪を償うよう命令しているというよりは
償うことが可能であると捉えた方が無難だ。


可能。
良いも悪いもなく、そのままの意味で。

この世に生き残る人は
良いも悪いも自分の夢がこの世に望まれた人で
夢を上手く演出できる、そのエネルギーがある人。
それだけのことで。

カイエlog2

排泄物に埋もれて我にかえされる、それの繰り返しだ。
いつまでも覚めきれない。


自分のなかで唯一本当らしいことといえば、
人の形をとった壁の染み(影)にあちらの世界へ誘われたことだ。
あのとき何故向こうへ行かなかったのだろう。


生き物には自壊現象っていうものがあって。
増えすぎると
細胞レベルで
口減らしが起きるんだよ。
死だけが
本当のことだと
思うんだろうね。


ムーミン
アニメは、何故か誰かが録画してたビデオにあった2、3話くらいしか観たことがなくて、
だけど不思議で殆ど理解はできなかったけど、『理解されている』感覚があった。
大人になるまで観た回だけはぜんぶ断片的に心のなかに刺さって消えなかった。

例えば、矢印の看板に惑わされるヘムレンさん
真冬の雪に消えてしまう女の子
暗闇のなかから何かが大勢みつめているおしゃまさんの家(?かな?どこかの小屋?)
火の周りで踊るムーミンたち

子どもはみんな理解している。この世の哀しみを。
まだ自我が発達していない幼い子供が。
何故、よろけて橋の端に寄っていっていってしまうのか。
皺寄せ。
哀しみを感じて死のうとするの。
混沌のなかに戻ろうとするの。
死にたいの子供は。

カイエlog

すべては懺悔だと
すべては償いでしかないと
思うことがよくある。


これから先しばらくは私は、物事を記号としてみていくことになるのだろうかと考える(皆よりかなり遅れをとってしまったが)。
タロットに興味が湧いたのも、記号を読みとく遊戯を楽しみたいから。ゲームとして。


人によっては届く見込みがほとんどない言葉というものもあるのだ。
それは 愛 だと思うけど。


何か自分がどうしようもなく気になってしまうものはみんな染みだと思えばいい。
ただの染みだと。染みが幻想を止めてくれる。


身を切り裂いて傷みを覚えないと地上に留まれないほど、
この世のことに興味が持てないのに
それほどまでして留まる理由がほぼ思い付かないんだけど。私は。


光に溶けて二度とこの世に戻ってきたくない


この世界が
待つことが可能な世界になればいいのに。
私が私を待つことが許されればいいのに。


https://sp.nicovideo.jp/watch/sm27715764

解読不要の文字列

誰だって自分が相手を本当に傷つけた記憶を書き換えて、忘れている。

人を人としてみないことで
やっと人を愛せるから
神について考えている。

視線を反らすのは
逃げているわけではなく、待っているから。
でも、この世は待っていてくれないらしい。


『変人ですよね』とわざわざ確認してくる人形(ひとがた)に時々出くわす。
そう、こういう人形は、恐らく繊細ではないのだ。
でも直感が働く。

地球人は全て、程度の差こそあれ、今や全員が病人で
変人でない人などいるのか。
気が狂わない方がよほど可笑しい。

けれど私みたいな人形は『変人』かどうか疑われるほどには『変人』なのだろう。
程度の差こそあれ、の『程度』の波がギザギザだから。


数学の教師だった人が、数独を見ただけで直感でどこにどの数字が当てはまるのかが分かると言っていた。
人には人の染み付くものが何かしらあるらしい。

私には 死 が染み付いている。

私が普通でなくて本当に良かった。
普通でないことを理解できない幸福な人間でなくて本当に良かった。
真っ暗闇のいい人生だった。
闇の向こうに光がみえる
ほとんど何も定かでない、そんな人生だった。
それでよかった。
最後に本当に美しいものに触れられるのだから。

創造

 

先日の記事では

自我が移ろいゆくことを前提にした文学について書いた。

このことを含む現象をボルヘスは『有為転変』と表現していた。

 

ういてんぺん【有為転変】 仏教のことばで、世の中のすべての現象や存在は常に移り変わるものであって、決して一定しているものではないということ。 「有為」は、因縁によって生じたさまざまな現象。 「転変」は、移ろい変わること。(Google辞書より)

 

少し前までの私は『自分が広がっていく』実感がなかったのが、意識があるまま死ぬことに半分成功した今となっては

人と会話している瞬間にも、まるで自分自身が相手に、その場にいる全員に、周りの空間に染み出している感覚が拭えない。

自分の分泌物を垂れ流しているような感じと言っていい。

そのことを理解できず無駄な堤防を己の周囲に張り巡らしていた以前に比べれば、それが実感となり言語化できているだけでも救いだ。

 

心底気持ち悪い。

自我が溶け出し、相手の深層へ染みこんでいき、自分にも染みこんでいく感覚は、エロティシズムに繋がる。

私はエログロそのものよりも、エログロを好む人、それらを作りだす人たちの心境に興味が湧いてしまう。

 

『エロティシズム』について研究したバタイユは、腐敗について無性生殖の、分裂することで殖える構造を示して分かりやすく説明している。

ひとつの個体が分裂して二つに分かれるとき、元あった個体の自我は存続されるのか?との問いにバタイユは『否』と答える。

無性生殖の場合、元の存在が死ぬことで新たなものが産まれるというのだ。

個体が分裂する途中の、分かれるか分かれないかの間に『死と生』が一体となった瞬間がある。

人間のような有性生殖は、個体から新たな生命が生み出されても、大体は死ぬことが無い。

故に『死と生』が一体となる過程は出生時ではなく、死後の腐敗にみられる。

 

こんなのは残酷だと私には思える。

無性生殖なら一瞬で起きることが、我々人間は『出生時に母体が生き永らえる』ためにゆっくりと腐敗していかねばならない。

ゆっくりと互いに滅ぼしあいながら、死へと0へと向かい続けなければならない。

しかもそのほとんどが『腐敗』ときている。腐臭を垂れ流しながら、生き永らえることのどこが地獄でないといえるのか。

 

 

ヴェイユの思想と活動は、それを真似しようとすれば、およそ人間を保つことが難しい。

九つある天使の階級のうち最高位の熾天使は、神への愛の焔で燃え盛っている天使だというが、彼女のような人をそう形容してもいいのではないだろうか。

スピリット的には近い位置にあったと思われる二階堂奥歯さんなど

ある面では、

彼らは潔癖すぎるが故に敢えて不浄なものを受け入れようとしているように見える。

 

自我が移ろいゆくものだということを受け入れることも

不浄なものを受け入れることも

透明になりたいという願い故。

人間になりたいのか、神になりたいのか。

恐らく、両方。

 

 

 

ストーリー

最近は年々ストーリーがどうでもよくなっている。

登場人物とか出来事とか。

 

1級の作品にはストーリーに動きがほとんど無いと、どこかで読んだ気がする。
ヴェイユの散文には
「 二流の作品は自己の拡大、第一級の作品すなわち創造は自己の放棄である 」

とあった。