夕日を泳ぐ 寝言レビュー

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

結界 その①

 

 

母ヤショーダは神の子クリシュナが泥を食べたのではと疑い、食べていないと弁解する子どもの口を開けさせた。

すると母は子の口の中に悠久の宇宙を見た。

 

映画「ライフオブパイ」にも出てくる、インドの神クリシュナの話だ。

 

私はこれを"曼陀羅の構造"と合わせて語りたい。

 

曼陀羅

 

①対称性

②円形

③閉鎖系(結界、囲い)

 

で構成され、"現在"を表す。

曼陀羅はひとつの小宇宙である。

 

瞑想では、この曼陀羅を呑み込むイメージをして、自分自身が小宇宙であることを認識する。

ヤショーダが子の口のなかに見た宇宙とはこういうことなのではないだろうか。

 

曼陀羅を描くことは、

世界における自分の位置を確認する作業でもある。

 

そのひとつ、

③の"結界"について私はずっと考えていた。

 

結界はバリアだと思われがちが、その他に大事な意味がある。

 

結界とは、

"界を結ぶ"と書いて結界であり、

内と外を区別し、"境界を定義するもの"

つまり、あちらとこちらの接点を定義すること

でもある。

 

まあ、結界を張る大前提として

守るものがあることが条件なのだが……

守るもの≒好きなもの、大事なもの

で、結局

自分が大事でなければ結界は弱い。

 

例えば、

幼い頃に境界を越えて刺激されることが多かった人は自分の結界がぼろぼろで、自他との境界も曖昧である。

 

この間カウンセリングで、自分の軸がぶれやすいという話をしていたとき、

「歳を重ねれば、自分の層(バリア)が厚くなって、だんだん他人のいうことが気にならなくなる 」

というようなことを先生は話していた。

 

木の年輪のように、歳を重ねる毎に結界(自分の守備範囲)の領域が広くなり、

いつか自他との境界がその都度、柔軟にはかれるようになれるのだろうか……。

 

 

結界、といえばこのブログでお馴染みの(笑)

clamp作品にも多く出てくる"陰陽五行説"に関わってくる。

 

東京BABYRONの主人公は陰陽師だし、Xは主人公が"結界"を創造できれば自立したことになる、xxxHOLICではなにかにつけまずは結界を張ること……なのである。

 

clampが何故これほどまでに"結界"にこだわるのか、今回やっと分かった気がする。

 

人は自分で思っているよりずっと

境界線が曖昧だ。

そして目に見えない結界に縛られていて、守られている。

 

文明人であっても民族であっても、見えない結界…例えば歌とか箸置きとか家の造りとか…で半狂乱になることを防いでいるのである。

 

 

では、

長くなったので今日はこの記事を書きながら流していた曲を紹介して終わります。

 

https://youtu.be/0-4R2BEGeTo

 

またね。

こみねゆら

誰もがそうだとは言わないが……

 

自我は心のなかで母親を殺すことで芽生える。

それまでは器として生きる。

ちょうど卵に包まれたまま生きているのと似ていて、目は閉じられている。

 

これに関してフロイトユングの言っていることをまとめれば、

女性は、あるときまでは母親を生き、

男性は母親に囚われ(父親には多かれ少なかれ反発心を灯し)て生きる。

 

しかし彼らは心のなかで母親を殺したとき、二度生まれる。

卵の殻を破るのだ。

 

こみねゆらさんの絵本は、作品全体の印象として「二度生まれる女性」をテーマに描いているように思う。

 

オルゴールのくるくるちゃん (講談社の創作絵本)

「オルゴールのくるくるちゃん」はある少女のもとから人形(くるくるちゃん)が離れ、数年後、同じ女性のもとへ返ってくるまでの物語だが、

ここで描かれる人形(くるくるちゃん)の半生は、持ち主である女性の半生といっても良いだろう。

こみねゆらさんの寂しげな絵柄で描かれるくるくるちゃんの半生は、どこか浮いていて生きづらさを感じる。

くるくるちゃんの身体はどんどん軽くなり、いよいよ自分という魂の重みが抜けていき、風にさらわれてしまう。

そんなくるくるちゃんを拾い上げたのが、もとの持ち主である女性だった。

 

自分を生きることは自分を許すこと。

最後には器だった自分の半生(くるくるちゃん)を受け入れた女性は本当の意味で自分を解放できたのだ。

 

ミシンのうた (講談社の創作絵本)

 

「ミシンのうた」や「もりのちいさなしたてやさん」も、器としての女性、人形としての女性(または母親を生きる女性)を自然へ解き放ち、本来の自分を生きる旅へ出るまでの物語だ。

 

もりのちいさなしたてやさん (らいおんbooks)

 

こみねゆらさんの絵柄は人を選ぶかもしれない。

よく言われるのは「人形みたい。身体が細い」。

しかしまあ、そりゃあそうなのだ。

だってこの作家さんは人形を描いているのだから。

人という人形をね。

 

こみねゆらさんの描く人は人形のように表情がなく、寂しげで頼りない。

しかし彼女は別にそれを卑下して描いているのではなく寂しさのなかに柔らかいものが隠れている。

 

冒頭で「自我の芽生えは心のなかで母親を殺すこと」と書いたが、それが難しい人々もたくさんいる。

私もそうだし、恐らくこみねゆらさんもそうだったのではないかと作品を読んでいて思う。

 

こみねゆらさんの作品は、そういう人たちに対する穏やかな暖かい目線を感じるのだ。

 

 

さらざんまい ケッピについてなど

「さらざんまい」について4つめの記事になる。自分でも驚きだ。

恐らくいちいち書かなくても、「そんな常識だれでも知ってるぜ」と言われそうだけど…

書きたくなるのが私。

 

「さらざんまい」での「尻こだま」とは、個、生命、縁、運命、ボール、欲望……など様々な意味にとれるが、

その「欲望」を境界を越えて投げ入れることで外界と欲望を繋げれば、新しい自分になって帰ってくる。生きるとはその連続なのだというアニメだった。

 

「欲望」を境界を越えて投げ入れる……

と考えていたら、「神社の投げ銭」を思い出した。

運命の輪のような「五円玉」、即ち「欲」をお賽銭箱に投げ入れ、鐘を鳴らして礼拝する。

※少し気になるのは、「鐘を鳴らす」行為が「煩悩」を呼び起こす行為だとすると、欲を投げ入れる前に鳴らす方が辻褄があうのでは?と思う(宗教に詳しくないので詳しいことが分かりません……知っている方がいましたら教えて下さい🌸)

 

またイソップ物語の「金の斧」も連想される。

古い斧(欲望)を川に落とし、女神に煽られても、欲望を捨てれば恩恵が与えられると。


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まあ、その欲望を解消する行程が難しいのだが……。

 

話は変わって今日は

ケッピについて書きたい。

 

1話にてケッピは、きゅうりで頭の皿を鳴らしながら、「グッドモーニング!!」と登場する。


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周囲の「ア」という文字は「あ うん(の"あ")」や「愛」などを意味するという説は、どの考察サイトでも書いているので置いておくとして、

ケッピの行動に注目してみよう。

河童の神様が

"生命そのもの"を表す"河童の皿"を鳴らして「おはよう」と叫んでいる。

つまり、

尻こだま(魂)を抜かれ、亡霊のように生きている人々に向かって

生命エネルギー、即ち"煩悩"の音を鳴らして(呼び起こして)、「目覚めよ」と言っているのだ。

 

登場シーンだけでもかなり仏教的だ。

 

ケッピには白ケッピと黒ケッピがいるが、

同じ「白と黒」でも、以前記事で書いた人間の場合の「白と黒」とは少し異なる。

ケッピは人間でなく神のようなものなので、思想や概念に近いのだ。

 

ケッピの場合は「神と悪魔」で考えると分かりやすいかもしれない。

 

神(白ケッピ)は愛で満ち足りているから与えられるが、

悪魔(黒ケッピ)は愛に餓えているので吸収しつくす。

 

このアニメで前半は

カズキたち人間の意識において「神と悪魔」は「白ケッピと黒ケッピ」に、

「善と悪」にはっきり分裂してしまっている。

 

しかし

悪魔はもともと天使だったのであり、

神にはそもそも善悪という概念はない。

本当は、神も悪魔も同じひとつのものなのだ。

カズキたち人間がそのことに近づいたとき、

最終回で

「白ケッピと黒ケッピ(即ち善悪)」が融合し、悟りを開いている。

 

 

「さらざんまい」と「セーラームーン」は少し似ている。

どちらも愛が欠如して暴走している者を相手に闘っているが、

セーラームーン」は戦士たちがそもそも愛に溢れているので、「ヒーリングエスカレーション!」とか必殺技を使えば相手を癒すことができるのだ。

でもこれは、愛されて育った人や女神のような超人ならではの話だ。

愛に餓えた私にはちょっとよく分からない(エディプスコンプレックスとか、よくできた話だけど)。

 

それとは異なって「さらざんまい」は

愛に餓えている人や欲望に溢れた凡人が闘う話だ。

欲望に溢れた者同士が闘うので、闘うというよりは、

相手の欲望に自分の欲望をみる、という鏡のような作用が起こる。

相手を変えるというより、同時に自分を変化させるのだ。

 

それではまた!

さらざんまい 欲望解消の儀式

「さらざんまい」でもそうだが、最近はなんだか「繋がり」をテーマにした作品を度々目にする。たまたまなのかもしれないが……。

 

「繋がり」と一口に言っても胡散臭く聞こえてしまう。そのくらい、現代では「繋がりとか絆」なんてものは鬱陶しがられるし、簡単には信じられなくなった。

 

「繋がり」には多次元的な意味がある。繋がりには、パラレルワールドのように幾つもの層があると私は思う。

 

「さらざんまい」でトオイは言う

「誰だって、切れてから繋がっていたことに気づく」

目に見えやすい繋がりが絶たれたとき、ひとは深いところですべては繋がっていたのだと気づく。

目に見える繋がりは、現代では「当たり前」になってしまっている。

繋がっていることが当たり前、生きていることは当たり前。

そんな繋がっているのか繋がっていないのか、命の感覚が麻痺している現代は

「絆」以前の問題なのだ。

そこでいま「繋がり」の意味を根本的なところから見直す必要があるのかもしれない。

 

 

ウッドラフの原生動物を使った実験でこんな結果がある。

 

自らの新陳代謝が蓄積された培養液の中では必ず死んだはずの個体も、遠くはなれた血縁の種の老廃物で満たされた液体のなかでは、立派に繁殖した。

このように、そのまま放置された滴虫が自然死をとげるのは、自らの新陳代謝の産物が十分に排除できないためである……

 

始まらず、終わらない者たちにとって

繋がることは苦しいことだ。

でも生きることは繋がることで

私たちは死んだまま生きるのか

魂を輝かせて本当の自分を生きたいのか……

 

魂を輝かせたいなら欲望を繋げ!と言うのだ。

そのためにこのアニメでは「欲望解消」の儀式が行われる。

 

①カパゾンビの裏側に回り込み、

②欲望エネルギーである尻こだまをかっぱらって呑み込む

③自分たちの欲望を漏洩

④欲望エネルギーがケッピに転送され、欲望は解消される

 

自分の新陳代謝(欲望)に埋もれて死んでしまう前に、他人(カパゾンビ)の欲望を媒介にして、自分の欲望を解消していく他ないのだ。

 

そうして悟りを開いていけと、「さらざんまい」は言っているのだと思う。

 

自我論集 (ちくま学芸文庫)

さらざんまい なぜサッカー?

「さらざんまい」で観賞中ずっと違和感だったことが、今回新たに分かったことがあるので書いてみる。

 

ずっと気になっていたこと…

それは

なぜ"サッカー"をカズキたちの共通項にしたのか?

 

繋がるという意味で

 ボールゲームを使ったとすると、サッカーではなく野球でもバレーでも良かったはずだが、

なぜよりにもよってサッカーなのか?

というか、そんなことをいい始めたら切りがなさそうだが……個人的にあのアニメで「サッカー」は結構浮いて見えてしまったのだ。

サッカーしようぜ!ってなんでそんなにサッカーサッカー……

なぜここまでサッカーにこだわるのか??

私には気にって仕方がなかった…(ボール以外にも繋がるという意味合いの共通項は他にも沢山ありそうだし)。

 

そこで色々調べてみると

幾原監督が影響を受けたとされる寺山修司さんの著作「書を捨てよ、町へ出よう」にヒントが隠されていた。

 

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

以下本文抜粋。

 

私がサッカーを愛する何よりの理由は「にくしみから出発した競技」だということである。蹴る、足蹴にする、という行為には、ほとばしるような情念が感じられる。

 

大きいタマ(サッカーボールのこと)は男性的である。それは性的時代の象徴であり、
いかにも英雄的に見える。そして、大きいタマこそは、
世界を制するための条件の一つなのである

 

同じ蹴鞠(けまり)あそびでも、それをサッカーやフットボールとして育てていったヨーロッパ人は、先ず、境界線を作ることからはじめた。
敵地と味方。―白い線でフレームを限定し、ルールを作っていくのは、地つづきに他国を隣接している民族、交配によって繁栄してきた牧畜民族の必然であったのだろう。

なにしろ、ヨーロッパのボール遊びは、ルールによって国家を形成し、その中で個(頭蓋の喩えとしてボールのような)運命をもてあそぶ、ところが、わが国の手毬つきなどは反復と転生によって生きのびてきた農耕民族の作り出した家のまわりの遊びである。

はじめから境界という概念がなく、ただ繰り返す....。

少しでも遠くへ『邪魔な頭蓋骨を蹴り飛ばしてしまおう』というサッカーの『愛国競技性』にくらべれば、手毬は悲しい遊びであることがわかる。
それはひたすら同じところにとどまって、何かを待ち続ける歴史の比喩である。

 

なるほど。これでサッカーを中核にしなければならなかった理由がほぼ分かった。

ちなみに、寺山さんはサッカーと野球を比べて「ホーム(家)ではなくゴールへ向かう」と強調しているので、やっぱり野球でも駄目なんだということも分かる。

「サッカーボール≒大きなタマ」であることから、「尻こだま≒欲望」のテーマにぴったりだったのだ…というかそこが狙いだったのだろう。

 

ボールゲームの起源が外国と国内で「境界線」を張るか否かの違いがあるように、

「さらざんまい」は

「手鞠なんかしてないで、サッカーしようぜ!」というアニメだったのか……。

 

何度でも境界を越えて、虹色の君になれ!


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境界を超えなければ、分からないことがある

欲望に忠実であれ

 

さらざんまい 白と黒

幾原監督のアニメ「さらざんまい」をようやく観たので感想を書く。

とはいえ深い考察は既に多くの方がされているので置いておくとして、

私自身このブログで度々テーマにしている、"白と黒"についてアニメを参考に改めて考えてみた。

 

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ケッピの言う「絶望のあまり、尻こだまを2つに割って」生じた"白と黒"。

 

絶望とは「極度の抑圧」だ。

極度の抑圧をかけられると、人間の心は2つに割れる。

 

さて、何故「絶望」で2つに分かれなければならないのだろう?

 

輪るピングドラムの劇中句を借りるならば、

人間はどんな状況でも「生存戦略」をしている。

 

生き残るために「自己犠牲」をとるのだ。

それは

トオイの兄(悪いやつが生き残る😎✨byトオイの兄)のような「殺す側(黒)」になるか、マブのように「人形(白)」(人形焼き、食うか?👓✨byマブ)になるか…

"究極の二択"を迫られることである。

 

 しかし、どちらを選択した場合も

無意識に抑圧されたことは、無かったことにはならない。

生きているかぎり選ばなかったことは無意識で働いている。

 

白を選び、レオの人形になったマブは、生きるためにはマブを偽り続けなければならないし

黒を選んだトオイの兄は、弟の存在(良心、白)が兄を生かすので、弟を殺すことは自らの死を意味している。

 

このアニメで"白"に相当するキャラクターは

白ケッピ、マブ、トオイ、カズキ…などである。

彼らは、自分を削って生きることを選ばざるをえなかった人々だ。

トオイは一見"黒"にみえるが正確にいえば"黒になりたい白"である。トオイの兄が"黒"を選んだので、その生け贄として"白"にならざるを得なかったキャラクターだ。

 

カズキとトオイは、

どちらも円から絶ちきられた存在であり

自分を捨てることに慣れてしまっている。おかげで身体があまり大事に思えない。

命さえも。

自分がはじめからいない方が丸くおさまると思っている。

そこでどんどん手放していく。

手放していって、はじめて自分の本当の欲望に気づいてしまう。

 

また

トオイと兄の関係性を描くことにより、

"白と黒"の境界が曖昧になってくる。

トオイは「兄にとっては白」だが、

兄についていく決心をしたトオイは、必然的に兄との同一化を望むので、「白→黒」になろうとする。

トオイを白だと思っていた(というより白であってほしいという願い)兄は、弟が銃を持っていること(黒に近づいている)を知り、疑念が生じ、死んでしまう。

 

レオマブの描写でも白と黒の曖昧さが出てくる。

 

一度割れてしまっても、もとに戻ろうとする力が働いてしまうのだ。

本当は白黒に割りきれるものではない。

だから白も黒も受け入れる必要がある。

 

物に囲まれ、自然との調和も忘れ、ネットで繋がることも切ることも擬似的に可能な、

様々な欲望に渦巻く現代は、愛も欲望も混沌とした世界だ。そのなかで存在が危うくなっている現代人は本当の望みが分からなくなり、白と黒の二極化へ近づいている。

 

このアニメは「始まらず、終わらない」者たちへ「欲望の河を渡れ!」と呼びかける。

一度死ねば、またはじまりがやってくる。

そのときはじめて始まることができるのだ。

人生は終わりとはじまりの連続で、まるい円で繋がっている。

本当の自分に会うために

境界を越えて、また帰ってくる必要があるのだ。

 

「もうたくさんだ!」「お前らとは絶交だ!」「もう二度と会うもんか!」

 

本当は愛しているのに、レオを嫌いだと偽り続けたマブ。

繋がり、欲望、愛、ジレンマ、絶望、自己犠牲…

「大切なひとがいるから悲しくなったり、嬉しくなったりするんだね。そうやって僕らは繋がっているんだね 」

 

感情を殺さないでいい。自分を殺さなくていい。

黒か白にならなくていい。

感情には濃淡があり、

人間は本来、虹色なのだ。

 

恥もねじれた欲望も、その都度解消していけばいい。

本当の欲望を貫くために。

 

そんなことを真剣に描いてくれたアニメでした。

ありがとうさらざんまい!

元型論、ライフオブパイ

因果関係で考えることに慣れてしまうと、人はすぐに答えが欲しくなるらしい。

直線的な考え方が人気を得る。それが生存戦略になる人もいる。事実私も前半はそうだったし、そのおかげで自分の心を置いていく羽目になってしまった。

 

スピリチュアルとか宗教とかの話がでたとたんに胡散臭い感じがしてくるのは何故だろう?では、そんな人が何故クリスマスを祝うのかと聞かれたらどう答えるのか。無宗教ですと答える人は、自分が無宗教という宗教を持っていることには気づいていないのか……。

 

有名な物語を見てみると、血縁だとかコンプレックスだとか、そういうのがテーマのものが沢山あったりする。

心の動きを研究すると、必然的に万物との繋がりを思い知らされる。

それは私が私を見ている世界であり、あれがなければこれもない、という二律背反の世界である。私が操縦しているように思えて、事実はその逆であったりする。

 

この世は転移が転移を呼び、認識もそのごった煮のようなもので複雑なことになっているのだが、

ではその結び目をいちいちほどいていくにはどうすればいいんだ。混沌の中には必ず法則が見つかる。そんなこと気にするなという人もいるが、私にとっては死活問題なのだ。心を無視して普通に働こうと試みたこともあったが、上手くいかなかったし死ぬところだった。

 

話がそれたが、結局は自分の真実を見つけていかねばならぬ。私の場合には、無意識、遠回り、無用の長物などに秘密が隠されているらしい。

まったくもって合ってない。合理的主義が尊重される現代に合ってない。なんてことだ。

 

昨日ユングの「元型論」をようやく読了した。

元型論

個人個人、無意識の闇に隠れているものは当人たちには思い付きもしない。周りから見れば明白なことでも。

しかしその無意識に隠れたもののなかで、乗り越えるべき事柄が葛藤となって起こってくる。

解決の糸口というものは、当人たちにとってははじめは理解できないイメージのようなもので、大抵それは「どうでもよさそうなもの」である。

意識化されたものが普通になるのであって、無意識の闇に隠れて靄がかかっている、意識されていないものは、はじめは理解されない。

でもそれを認識するためには遠回りが必要だ。

だから一直線では無理なのだ。わからないことがわからないままで解決することなんかひとつもない。

葛藤は白黒決めることが目的ではない。その背後になにが隠れているのか、どのような心の動きがあるのか、見えなかったものが見えてくる。第3の事柄が産まれてくる。

ユングの文章からまたもや

自分と向き合う勇気をもらった気がした。

 

自分の真実を見つけることは、自分の中の猛獣と闘うことでもある。

「ライフオブパイ」は虎と少年の漂流物語であるが、意識と無意識の話としてとても良くできた話だった。

ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 [AmazonDVDコレクション]

自分の内面の百獣の王を何によって従わせるのか?

それぞれの神かもしれないし、信じる人かもしれない。

けれどもパイは多神教で(しかも神に見放され)、自分自身しか頼れる者はいなかった。

この映画のメタファーとしての虎は本能、少年パイは理性を表す。

内面の世界では、意識とは広大な海(無意識)に浮かぶちっぽけな船でしかなく、

本能である虎が大船を独り占めし、理性であるパイは付属の筏でゆらゆらしている有り様なのだ。

このような条件下でどのようにしてパイが自分の内面の成長を遂げるのか、真に迫った内容だった。

忘れてはならないことは、虎(本能)は飼い慣らすことはできないということ。敬意を持って訓練することはできるが、決して嘗めてかかってはならないのだ。それは自分ではどうにもならない運命とか、普遍的無意識とか存在そのものである。