~distillation(蒸留)の間にあるStill(スティル)~アリ・スミス『秋』

外は冬。雪。
木の内側に暖炉があって
私は、燃える薪の前で眠る
そんな状態が生まれて以来ずっと続いている。


先月『星の時計のliddell』を読んだ
秋・薔薇・眠る人
の3つのキーワードに共通する本が浮かんだ。

秋 (新潮クレスト・ブックス)

秋 (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者:スミス,アリ
  • 発売日: 2020/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

アリ・スミス著の『秋』、
四季四部作のうち、始めに執筆されたのが"秋"である。


"春は最後にやってくる
刈り入れの季節のいちばん最後に!"

シェイクスピア


またしても"夏"がなかったことにされている(秋が始まりなら終わりは夏のはず)。
星の時計のliddell』でも夏のことはあまり描写されていなかった。

夏は夢のような扱いなのだろうか。

思えば、季節の意味について考えたことがなかった。
四季のなかでも"秋"ほど変な季節があるだろうか。
実りと衰退のなかで
けばけばしいくらいに鮮やかに紅葉する、秋。
そんな秋が始まりである、と。


この記事を書いている時期がちょうど秋だったので、
通勤途中、オレンジと青に二分された空が臨めた。


文学や絵画等で"オレンジ(フルーツ)"が出てきた場合、それは"太陽"を意味するのだろうか。

『秋』本編に、
"オレンジ色の布"で包んで自然な色に再生する"白いオレンジ(フルーツ)"が登場する。
更にそこに"青い布"と"緑の布"を被せれば、
"セザンヌの絵画みたいなオレンジ"に変わる……等々とある。

"オレンジ"が"太陽"なら、
何となくこれは"黄昏"と"暁"のことを言っている気がしなくもない。
だとすればこれは中間色、中間、あいだのことで、
"実りのとき"であり"衰退のとき"でもある『秋』にも繋がる。


青とオレンジを混ぜると緑。
緑とオレンジを混ぜると黄みがかった黒。

緑は葉緑体、再生のことかもしれない。
黄みがかった黒は『玄』というらしい。
天空の色、幽遠、老荘思想の哲理を意味するという。


秋の紅葉について調べると、仮説しか出てこないが
必要なくなった葉緑体が分解されるときに
浴びると毒素になる青い光から本体の木を守るために赤くなるらしい。
再利用可能なものは吸い尽くされ、赤くなって落ちていく落葉。


"物語は終わりのない落葉だ"


それでも、まだ、じっと、いまだに……

夢をみる家『星の時計のLiddell』内田善美

この伝説の書について、私なんぞが語ってもいいのか……しかし、
私の心のなかに『星リデの間』という部屋が創られてしまうくらいには衝撃作だったので
メモ程度にレビューを書き散らさせて頂く。

星の時計のLiddell 1~最新巻 [マーケットプレイス コミックセット]

これは彼岸を見つめる人々の話だ。
死、混沌、目に見えないもの、究極的な、人間が求め続けるもの…
物語の外側にいる人びとは
対象を越えた同じ方向を見つめ続けている
この種の人間たちの目は、あおく、哀しい。


そういえば私の先代の図書館委員長はSF研の部長で、ファンタジーが好きなひとでした。トールキンが好きで瞳が美しい人でした(近眼だし)。
『八本脚の蝶』二階堂奥歯


この作品の大まかな構図は
夢をみる人(ヒュー)と、彼を中心に興味をもつ人々を配置し、ヒューという現象をデッサンすることを試みている。


一羽の烏が、一片の脂肪に見えている石のところに飛んでいった。
そして、ひょっとするとこれは御馳走かもしれない、と考えた。
だがそれが御馳走でないのを知ると、烏は飛び去った。
石に近づいたこの鳥のように、ぼくらは__僕ら試しみる者は__苦行者ゴータマのもとを、彼に興味を失うと立ち去っていく

『ゴーレム』マイリンク


死や夢を取り扱うにあたってこの作品では先ず、
病的なもの、
フロイトユング(ユングはまだ近いとは書いている)の試みた治療上で必要な材料
等とは一線を引いている。
ここでは
死や夢をネガティブなものや道具としてではなく、
それらの神秘性をより印象付けるため
ポーの詩『幻の郷』と荘子胡蝶の夢』が中核に置かれている。

フロイトユングとは違うといいつつ、
作中では、かなり科学的な情報を取り入れている。
ここが面白いところで、
とても理系派なのに、
夢と現実の境の曖昧さ、危うさを物語に侵食させていく。
どれだけ明晰な情報が詰め込まれていようが
それらも含めて詩的なところへ収束していくのだ。


ヒューが本当に存在するのか(人間か)どうかなんてどうでもいいことだが(むしろ現代はヒューのような突然変異が出てきつつあると私には思えてならない)
人を越えて(透視した)彼岸のリドル(謎)を生命の泉として
どうしてもそれに惹かれてしまう人間にスポットライトを当てた作品にはじめて出会えた。

今まで私が通ってきた書物は、十全性に必要なのはもう一人の人間だ(例えば男女、または同性)と決断を下すものばかりで。
私はそれにうんざりしていたわけで。
星の時計のliddell』は、自らを起こしてくれるものを"人間"に求めない、その源泉をどうしても"夢"に求める人を肯定してくれた。

季節の四季だけが巡り来る空間を
夢みる家を求めることを
丁寧に描いてくれた。
それだけが本当に嬉しかった。

私の心にも郷がある。それだけが本当の黄金郷だ。
(それは、十全性とは程遠いことで、また違った次元のことなのかもしれない)
人間を保つには、あまりにも儚すぎた。


『家が夢をみる』というモチーフは、イギリスのファンタジーを彷彿させる。
イギリス人が家や立地に拘るのは、どうも物にエネルギーがあるという基礎概念がもとにあるらしい、ということは何となく理解していた。
森や川、湖の配置はかなり重要で、
それは家主の心の情景と近くなければならない。
己のエネルギーが向かうところを選ぶのだと。
しかし、エネルギーそのものの持つ引力についてはピンときていなかった。
そうか、家は夢をみるのか。


ここでこの作品の季節感について考えてみよう。
春は予感。春の風。空気。
夏は過ごせない。
秋は金木犀。ウラジーミルがやってくる。
冬の支度、死の香り。
冬は白い愛が舞い降りてくる。純粋なものは、より上へ。

秋になればウラジーミルがやってくる…
リドルははじめは薔薇なのだ。
薔薇なのに金木犀の香りが強いのはおかしくないか。
薔薇(西洋哲学)には金木犀(東洋哲学)を
ということなのだろうか。


夢をみる家はいわばヒューの箱庭だ。
リドル(ヒューの女性性)にとっては黄金郷でもある。
BL的解釈。
箱庭(夢)に囚われている純粋さB(ヒュー)は
(その儚さ、混沌にとても近いという性故に)人ではない、彼岸を見つめ続ける。
そのBに奇形な人間として惹かれるA(ウラジーミル)。
Aは大概人間を愛することができないので、
人間と神の間の天使のような人間(人間であることが最重要)に惹かれる。
※便宜上、作中から引用して"奇形な人間"と記したが、もう少し正確に表現すれば、宇宙規模で見たときに人類こそが奇形ともいいたい。

つまり、病んでいるAが純粋なB(とはいえ純粋なものは病んでいる)に浄化され、箱庭に引き込まれていくBLともいえる。

どれだけ夢に魅せられようと
人を呼んでしまうんじゃないか。

私にとってはヒューが特別だが、
自分自身に近いのは、恐らくウラジーミルなのだろう。


『あなたはお釈迦様に似ている』
『ヒマラヤのふもとの小さな王城の王子さま
彼は二重に故郷をなくした人よ
若くして自ら国を捨て
その晩年には捨てた王国さえも滅ぼされてしまったわ』
『そして…沙羅双樹の木の下で死んでいったの』
(ずいぶん幸福な王子さまだ
私には生まれた時すでに失う”故郷”がなかったよ)
『それでも
ひそやかな小さな木のたもとで死ねたら
それはずいぶん気分がいいね』

『星の時計のLidell』


f:id:psychocats:20201110074316p:plain
f:id:psychocats:20201110074250p:plain

童歌

子供の頃の夢。
私は空になりたかった。

寂しさ苦しさを無かったことのようにして
砂糖で包んだものを
天使の子たちはたちまち嘘であると見抜いてしまう。

世界の残酷さから滲み出した苦しみを
内に持つものが
童話や童歌として残っていく。


草と梢が指差している 青い空
鳶の声が鳶を探している 青い空
ああ 青い空の
青い空の下には
誰もいない

下から上へ。
魂が目指す方向。
鳶を選んだのは、旋回して飛ぶからなのかな。
旋回して探しているんだね。

『鳶の声が鳶を探している』
自分から放ったもの(又は通ったもの)が自分に追い付かない感じもする。
私を通った環は、広がって
何処かへ消えてしまった。
何処へ消えたというのだろう。
『青い空の下には 誰もいない』


白いすみれが舞い降りてくる 青い空
鳶の声が鳶を探している 青い空
ああ 青い空の
青い空の中には
何もないよ

上から下。
子供の頃の私には
『白いすみれ』が雪に思えた。
大人の私はそれを
純粋な神の愛(恩寵)と言語化する。
神は居ないと知ることは
浄めとしての悟りの段階だ。


水と林檎に微笑んでいる 青い空
鳶の声が鳶をみつけた 青い空
ああ 青い空の
青い空の下には
みんながいたよ

『青い空の歌』佐藤義美

『水と林檎』は生命。
林檎は人間を人間たらしめるもの。
最後のこの歌詞は、私には死んだあとにしか叶わないような夢に思える。

子供の頃の私はこの歌を
渇きを癒すように歌った。
真実を真っ直ぐにみつめた祈りの歌だった。


ひらひら ひらひら 花びら着陸
手の上に
も一度花へ咲きなさい
も一度枝へ帰りなさい

5・4・3・2・1 ふうっ

花びら出発 木の枝へ
いっさん ばらりこ くっつかない
いっさん ばらりこ くっつかない

『ひらひら はなびら』佐藤義美

解読不要の文字列

誰だって自分が相手を本当に傷つけた記憶を書き換えて、忘れている。

人を人としてみないことで
やっと人を愛せるから
神について考えている。

視線を反らすのは
逃げているわけではなく、待っているから。
でも、この世は待っていてくれないらしい。


『変人ですよね』とわざわざ確認してくる人形(ひとがた)に時々出くわす。
そう、こういう人形は、恐らく繊細ではないのだ。
でも直感が働く。

地球人は全て、程度の差こそあれ、今や全員が病人で
変人でない人などいるのか。
気が狂わない方がよほど可笑しい。

けれど私みたいな人形は『変人』かどうか疑われるほどには『変人』なのだろう。
程度の差こそあれ、の『程度』の波がギザギザだから。


数学の教師だった人が、数独を見ただけで直感でどこにどの数字が当てはまるのかが分かると言っていた。
人には人の染み付くものが何かしらあるらしい。

私には 死 が染み付いている。

私が普通でなくて本当に良かった。
普通でないことを理解できない幸福な人間でなくて本当に良かった。
真っ暗闇のいい人生だった。
闇の向こうに光がみえる
ほとんど何も定かでない、そんな人生だった。
それでよかった。
最後に本当に美しいものに触れられるのだから。


もしも人を愛さなければならなくなったとき、私は男性ではなく女性を愛したい。
私が男性を選びませんように。

エレンを解剖してみよう。

煩悩に効く作品は
下へ突き落としながら
螺旋を描いて上昇していく
作品だ(相反するものの一致・重力と恩寵)。

二重螺旋に身を任せていれば
生きやすいのか、それとも
私は二重螺旋さえもぶっ壊したいのか。

しかしどちらにせよ
性そのものを見つめること、ある程度は流れに乗ることでしか先を照らせない。

柵(性)というものが前提としてある。
その柵に囚われることと
その柵を見つめることと
どう差があるのか。
見つめることは囚われることでもある。囚われることが全てを包括しているから。


彼女(彼)はイエスを愛していた
と言うとき
彼らは人間の 魂と肉 の揺らぎについて考え続けた人たちだったのだということがわかる。

f:id:psychocats:20200929231856j:plain

進撃の巨人の主人公は、神の子イエスだろう。
物語が純粋な神話に近くなればなるほど、
その主人公はその時代のイエス像に近くなる。

例えば男と女という視点でエレンを解剖してみよう。

男性にとってのアニマであり、実際の女性にとっては偽りで溢れていた、これまでの男性作家が描いてきた女性像の殻を破り、
エレンは、現代の男性作家が女性にとってのアニムス像を描き始め、作中の男性主人公が実際の女性像に近くなってきたことの証明でもあるようにみえる。

よって男性的でもあり女性的でもある主人公が誕生しつつある。

男と女、白と黒、善と悪……通常ならどちらかのはずが、ある種の人間はその一生のうちでどちらもコロコロ変わる状態と付き合っていかねばならない場合がある。
そういう人間は神の鏡になれるのだと
私は信じている。

現代は境にあり、
それはある種、人間と獣のあいだにあったイエスと同じ境遇にあるということでもある

人なのか
獣なのか

苦しむことが、設計されているから

言語の概念

私『言葉の牢獄に閉じ込められていると最近よく思います』

先生『そう。でも、人に伝えるには言葉は必要よね』


昨日の今日 きょう 試(こころ)みて 新しいこころ
みたら 自分のこころ とっても遠い
言葉 ことば とは とっても遠くて といっても
少し 今日も ほんの少し 自分から

離木かな 『ほんの少しは自分から』

(本当に人に伝えるためには 言葉 が必要なのだろうか?)


何かどうしようもなく気になるものを並べてみる。
整合性のないかのように見えたコラージュは
しばらく見つめていると
背後に、細く繋がった一本の紐が透けていることに気づく。


自分がこんなところに生まれたのは
自分が見たもの、感じたことを記録して
この天体、地球を
逐一偵察するために送り込まれたためなのだと
幼少期、考えつくに至ったと話す人々に
私はこれまで作家を含めて3人会った。


3人もいたのだから、もしかしたら世の中には
彼らのように人よりいくらか目覚めている人たちは案外結構いるのかもしれない。

目覚めている、とはいえ
いくら目覚めたって目覚め足りない。
この世の最後に 地下に眠る巨人が目覚めるだけ……


自分だけに見える景色
それまでの履歴、DNAに書き込まれた幾何学模様、
出会うべくしてすれ違っていく人々……

複雑に絡まりあったあやとりから
選択された軌跡

それを人に伝えるには
言葉はあまりにも 操るには難しい。


起承転結の起を削ると
承が序になり
序破急になるのかもしれない。

1から10までプロセスを順に説明するのは
果たして読者に親切といえるのか

様々な想念を自分にしかわからない繋がりで
パッチワークのようにコラージュしていけば
物語を追う という表面の作業を取っ払うことも可能で
それはポエムに近いのだけど……

短い文章で多くを語るには
死ぬまで
私は私の 言語 の概念を壊さなければならないだろう。

7年後に進撃観た想念


『人類が月面着陸したとき、子供だった私たちは心踊った。
空とぶ車や仕事をするロボット……未来には夢があった』
カウンセリングでの先生の発言。


週末、図書館の新刊コーナーを物色していたときに奇抜な存在感を放っていた、水色と蛍光ピンクの表紙の本を引き抜くと
帯に書かれた言葉が目に留まった。

『こんなはずじゃなかった』21世紀を生きる
私たちのための物語

ボーン・クロックス

ボーン・クロックス



百年前を生きていたミヒャエルエンデは
これからの時代は勇者の話ではなく、敗者の物語が求められると書いていたが、

確かにここ数年の覇権を握るアニメは
土下座から始まるものが目立つ。

0からはじまる復権の物語はもちろん、生存権さえも手放す物語も出てきつつある。

例えば私が最近はまっている 進撃の巨人 なんかもそれに該当するだろう。

私『この物語は、100年間続いた平和が巨人たちの侵入によって破られるところから始まるけど、
その平和は新地開拓のために外に放り出された人間たちの上に成り立っていたことが後に明かされる。
これは例えば99%の人間を生き永らえさせるためには常に1%の人間の生け贄が必要だという好例だね。』
母『でも100年続いたんでしょう』
私『え?』
母『100年平和に生きれたのなら、いいじゃない』
私『……』


現代の母親なる者たちは、ご覧の通り巨人たちに喰われてしまったようである。

私は母親とはどういうものか人並みに知っているつもりではある。頭では。
f:id:psychocats:20200927203717j:plain
出典 ユング 『元型論』

つまりこういう化け物が母親というものなのだ。
こういう姿が、非常によくない仕方で現実化してきつつあるのかもしれない。
それとも長い間人類が考えたくもなかった問題と直面しなければならなくなったのが現代なのか、
今まで死ぬほど繰り返されてきた人間の根元的な問題なのか。

社会は
目に見えるところは無駄ほど発展しているが
目に見えないところは原始時代からほとんど発展していない。
同じ事を繰り返す……馬鹿みたいに……。

今この瞬間、もし神を形で表せと指名されたなら
私には二重螺旋を背負った蝸牛が見えます と応えただろう。


『正直、私には絶望的な未来しか思い描けない』
先生が困ったように苦笑いをする。


木々は裸になっている。空気は今にも火が点きそう。あらゆる魂がそこら中で略奪を行っている。しかし、薔薇がある。まだ薔薇が残っている。湿気と冷気の中、もう枯れたように見える灌木に、まだ薔薇が花開いている。見よ、その色を
アリ・スミス『秋』

秋 (新潮クレスト・ブックス)

秋 (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者:スミス,アリ
  • 発売日: 2020/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


駐屯兵団の紋章である薔薇。

ヴァージニア・ウルフは薔薇を
幾何学模様をした情念の 染み と描いた。

薔薇は憎しみでしかないのか



🥀 進撃の巨人 メモ 🥀
season1 13話まで視聴済。
現在までのところ、
北欧神話ユングのファルスの夢がモデルになったのではと予測。
件のユングが4歳のときに観た象徴的な夢とは、彼が夢で教会の裏にあった地下へ続く石階段を降りた先の部屋で、人喰いの巨大なファルスに出会うというもの。このときユングは母親の声を聞く。
参考URL→ https://esdiscovery.jp/knowledge/biblio/c-g-jung.html

死について思考

 

 

私は、死ぬことを考えることがそっくりそのまま

生きることを肯定する糧になっているのだが

これは人には理解してもらえない。

 

高度の潔癖症は、不快なものを退けることをやめる。

むしろ不快なものに執着し始める。

私の『死』への執着はそれに近いところがある。

 

あらゆる不快なものを集結すると『死』になる。

『死』は不快なものの集結であるとともに、

そんな不快なものを終わらせてくれるかもしれない

終わりのはじまりでもあり

だからこそそれは不快なものであるとともに

落ち着きを取り戻させてくれる。

 

生について計算している自分と

死について考えている自分がいて。

私の場合は、死について特に考えていないと生の計算速度に追い付かない。

考えることで均衡を保っている。

 

死について考えなければ、身も心もずたずたに引き裂かれてしまう。

 

対象をめがけすぎると本質から遠ざかっていくこと

無価値なものに視点を変えると対象をみる見方もいつの間にか変わっていて

本質に少しずつ近づいていける

 

私が無意味だと感じることは本当は無意味ではない

対象に近づきすぎれば、情念が燃え上ってしまうから

何も見えなくなってしまう。

 

かれの愛情は無私で、いつか私の父のことで言ったことがありますけど――墓場のかなたに通ずるような、そういう種類の愛情だったんです。

マイリンク『ゴーレム』より

 

所有しない愛情

対象より奥、彼方(彼岸)を見つめる愛情

生命の根元へ向かう愛情

全ての1なるものへの愛

 

 

フラットな気持ちで観てみた『聲の形』

 

 

映画『聲の形』DVD

 

なんてことだ。こんなの詐欺だ。

宣伝や評判なんてギャグでしかないのに真に受けた自分が情けない。

聲の形』は観る側のバイアスがどれだけかかっているかで見方が変わってくる作品かもしれない。

私が4年前の宣伝で受けたイメージは『いじめっ子がいじめられっ子と再会し、惚れる話』だった(当時ぜったい観るわけねーだろと思ってた)のだが…

 反省。心をフラットにして観たところ、どれだけ自分が偏っているかを悟らされた作品だった。

 

この作品は『恋愛』ではなく、『人と接すること・自分と向き合うこと』が重視されている。

また『いじめ』や『障害』を取り扱ってはいるが、主軸は別のところにある。

それらを踏まえ、細かくみていこう。

 

まずこの作品の特筆すべきところは、いじめに関わる人々の接し方のパターンがほぼすべて網羅されていること。

若干の胸糞悪さはあるものの、クドくは無く、偏りなく容赦ない作者の鑑識眼はさることながら、

しかし最も素晴らしいのは、それら『いじめ』の外面的な事情に加え、

当事者たちの内面のメカニズムを忠実に描いていることだ。

 

いじめっ子といじめられっ子は二律背反の関係性であることが前提としてあり、

いじめっ子もいじめられっ子も、相手が誰であろうと必ず引き合い、

そのとき向き合えなかったら以降様々な形をとって似たような問題(人)が現れてきてしまう。

今作の主人公(将也)は冒頭で自殺まで試みるほど追い詰められている。

『生きるのを手伝ってほしい』という本質を突いた台詞が出てくるのもやむを得ない。

 

このいじめっ子といじめられっ子の二律背反の原理は

太極魚やSMの原理と同じなので、もちろん恋愛にも似ている。

眼鏡女子の片思いを仄めかす描写や硝子の一方的な恋愛感情も

いじめと恋愛は原理的に近いということそのものを示唆しているに過ぎないと個人的には思う。

むしろ、硝子から将也ヘの恋愛感情は

弱者の(かつての)強者への生物学的な生存戦略としての、無意識的な屈従のように私には見える。

まあそれは言い過ぎだとしても、

この作品において、主人公には一般的な意味での恋愛感情は一切伴わないので

硝子の告白に対する将也の『月?きれいだね』という返答にはとてつもない純粋さがあるのだ。

 

 

障害者をメインキャラクターにするのはかなり大変なことで。

というのは、観る側にとっても『障害』という設定はノイズになりやすく、ドキュメンタリーなのかファンタジーなのかその線引きがどこにあるのか、見えづらくなるからだ。

この作品では障害を、

繋がる時に必要不可欠である障壁の大きさの象徴(例えば繋がるには手話を会得しなければならない)と、

周りを見ようとせず聞こうとしない将也の心的状況との対比の象徴を効果的に描くことに成功している。

 

いじめっ子といじめられっ子は相反するもののように見えて本質は似ているところもあり、

耳の聞こえない硝子と五体満足だが心理的には周りから心を閉ざしている将也(闇の向こうに小さな明かりが見えている心象風景)

は元々似ていた本質が現れてくる。

 

作中で自殺を仄めかすときに出てくる『花火』について、

『火花』は相反するもの(例えばいじめっ子といじめられっ子)の衝突した際に生じる爆発的なエネルギーでもある。

いじめられる側を経験した将也は、小学生のとき他者の中に求めていた『火花』を自己の中に求め始める。

サドからマゾへ、

自分の中心に矢印が向いた人間は一層苦しむので、精神性が高くなる素質がある。

この辺を拡大したキャラクターが結絃である。

性について悩むということは、生物学的な生理現象に抗うということであり、つまりは心と向き合うということだ。

硝子や将也のようないじめの当事者たちも、セクシャルマイノリティ当事者も、心と向き合う必要があったということなのだろう。

結絃は、この作品中で特に透き通ったキャラクターである。

結絃の映した鳩の死骸は、贄としての純粋なものだろうか。

彼女自身も他の2人と同じく、それを撮ることで自殺している。

 

 

この作品の最もリスペクトすべき点は、

常に死の香りがあることだ。

いじめの当事者たちは『火花』が極まった者たちであり、

つまりいじめっ子やいじめられっ子は生贄に近い。

彼らは何度も何度も池に飛び込み、無意識に自殺しようとする。

『再生』をテーマに置く作品は

新たなものを増殖していくというよりは『死』を描きつづけることになる。

 

自殺(または自傷行為)は、生まれ変わりたいという意味も込められた行為であり

自己を破壊して創造し直すという

最も人間的な行為なのだ。

 

 

f:id:psychocats:20200807223621p:plain

 

ラジオ形式でもどぞ。

 

聲の形(7) (週刊少年マガジンコミックス)
 

 

 

自己を殺して産みだす、それが創造

 

先日の記事では

自我が移ろいゆくことを前提にした文学について書いた。

このことを含む現象をボルヘスは『有為転変』と表現していた。

 

ういてんぺん【有為転変】 仏教のことばで、世の中のすべての現象や存在は常に移り変わるものであって、決して一定しているものではないということ。 「有為」は、因縁によって生じたさまざまな現象。 「転変」は、移ろい変わること。(Google辞書より)

 

少し前までの私は『自分が広がっていく』実感がなかったのが、意識があるまま死ぬことに半分成功した今となっては

人と会話している瞬間にも、まるで自分自身が相手に、その場にいる全員に、周りの空間に染み出している感覚が拭えない。

自分の分泌物を垂れ流しているような感じと言っていい。

そのことを理解できず無駄な堤防を己の周囲に張り巡らしていた以前に比べれば、それが実感となり言語化できているだけでも救いだ。

 

心底気持ち悪い。

自我が溶け出し、相手の深層へ染みこんでいき、自分にも染みこんでいく感覚は、エロティシズムに繋がる。

私はエログロそのものよりも、エログロを好む人、それらを作りだす人たちの心境に興味が湧いてしまう。

 

『エロティシズム』について研究したバタイユは、腐敗について無性生殖の、分裂することで殖える構造を示して分かりやすく説明している。

ひとつの個体が分裂して二つに分かれるとき、元あった個体の自我は存続されるのか?との問いにバタイユは『否』と答える。

無性生殖の場合、元の存在が死ぬことで新たなものが産まれるというのだ。

個体が分裂する途中の、分かれるか分かれないかの間に『死と生』が一体となった瞬間がある。

人間のような有性生殖は、個体から新たな生命が生み出されても、大体は死ぬことが無い。

故に『死と生』が一体となる過程は出生時ではなく、死後の腐敗にみられる。

 

こんなのは残酷だと私には思える。

無性生殖なら一瞬で起きることが、我々人間は『出生時に母体が生き永らえる』ためにゆっくりと腐敗していかねばならない。

ゆっくりと互いに滅ぼしあいながら、死へと0へと向かい続けなければならない。

しかもそのほとんどが『腐敗』ときている。腐臭を垂れ流しながら、生き永らえることのどこが地獄でないといえるのか。

 

 

ヴェイユの思想と活動は、それを真似しようとすれば、およそ人間を保つことが難しい。

九つある天使の階級のうち最高位の熾天使は、神への愛の焔で燃え盛っている天使だというが、彼女のような人をそう形容してもいいのではないだろうか。

スピリット的には近い位置にあったと思われる二階堂奥歯さんなど

ある面では、

彼らは潔癖すぎるが故に敢えて不浄なものを受け入れようとしているように見える。

 

自我が移ろいゆくものだということを受け入れることも

不浄なものを受け入れることも

透明になりたいという願い故。

人間になりたいのか、神になりたいのか。

恐らく、両方。

 

 

ここ数日はミルトンの『失楽園』を読んでいたが、第5巻の途中で断念した。

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

  • 作者:ミルトン
  • 発売日: 1981/01/16
  • メディア: 文庫
 

いつもYouTubeライブを拝見させて頂いている同性愛者の方の話によく出てくる本だったので、読んでみたかった。

その方によれば悪魔共がヒッピー精神あふれる内容だとのことで楽しみにしていたのだが。

思ったよりも悪魔が地獄で煌めいていない!

地獄の業火に焼き焦がされながらもぎらぎらしている話かと思いきや、結構すばやく脱出しちゃうし(サタンだけだけど)

イヴとアダムの牧歌的な楽園の描写は長々と続き…

 

f:id:psychocats:20200807224755p:plain

 

ストーリーを味わうのが目的ならSFとして読めばそれなりに楽しめるが、それはテッドチャンを読んでしまった身としては古典といえども退屈。

アンチプロテスタントとして読めば…ヴェイユとかユングとかを先に読んでしまった身としてはこれも似たような思想を反復するだけになってしまって退屈。

 …だったのである。

 

私は思想書を、聖書の二次創作をまあ読んでいるようなものなのだが(もとはといえばナルニアが元凶)、本当は原本(まごうことなき聖書)を読むことが目標であるにも関わらず、このままいくと二次で満足するようになってしまいそうでもある。

ボルヘスのように、そのものがあたかもあったというような、知らないことを彷彿とさせる文章でそのものを想像し、結果原本を直接に読むことよりも更に深く理解していることになってしまっているのではないかと。ああ…

 

なんだか前半と後半では全然違う内容になってしまった。

読めなかった本について語るのも、たまには面白いのではないか。

あと題名と内容が釣り合ってないように見える。

でも私が言いたいことは本当は題名の言葉であって、これに繋げるのは…また次の機会にしよう。

 

 

 

ボルヘス『伝奇集』物語の外側へ

 

ユング二階堂奥歯さんに触れたおかげで、今年に入ってようやく私の読書傾向にも変化が現れ始めたように思う。

時代にも同世代の若者たちにも大分遅れて、私もようやく「物語を外側からみる」読み方、またはそのようなメタ的な本を読もうという次元に片足をのせられた。

 

もちろんこれからも児童文学には何度も潜って確かめることはあるだろうが(メタ的に読み直すため)、

これからは「児童文学」は底に沈殿された一番濃度が高い分野として私の中に蓄積し、蓄積されていくだろう。

 

私の次の段階は思想、散文、SF、幻想の分野だ。

 

 

最近よく目にして読まねばと思っていた本

ボルヘスの『伝奇集』。

 

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 

ミヒャエルエンデ、二階堂奥歯寺山修司松岡正剛幾原邦彦やヨコオなどなど

作品を作る側の人たちにとってはけっこう重要な位置にある作家らしいということだけは薄々察していたところだった。

 

これもたぶん幻想とかSFに位置する本でもあり、よく言われるのは「本を書く人のための本」だ。

 

ボルヘスがよく「言葉の魔術師」と言われるのもよく分かる。

言葉のメソッドを脱構築し、読者を言葉の網目に引き込む。

たとえば彼は名詞を俗に使われる意味では使わない。

 

その天体の人びとは__生まれながらに__唯心論者である。(中略)彼らにとっての世界は、空間における物体の集合ではない。独立した行為の異質的な連鎖なのである。連続的で、時間的だが、空間的ではない。

「現代の」ことばや方言がそれから派生したと推定されるトレーン(※天体の名称)の祖語には、名詞は存在しない。

副詞的な価値を有する単音節の接尾辞(もしくは接頭辞)で修飾される、非人称動詞が存在する。

月に相当する単語はないが、スペイン語でなら月にする月するに相当すると思われる動詞がある。

月は河の上にのぼったは、つまり逐語的に訳せば、上方に、背後に、持続的に流れる、月した、といわれる(スル・ソラルは簡単に、流れやまぬものの背後で、上方に、月した、と翻訳している)。

ボルヘス『伝奇集』『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』より

 

彼はまた頻繁に本文中に架空の書物や人物名を登場させる。

 

長大な作品を物するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。

よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差し出すことだ。

ボルヘス『伝奇集』『プロローグ』より

 

 読者を信用して説明しすぎず、読者に想像させる文章が良書の基本だ。

こんな調子なので、ボルヘスの作品を読むときには不思議な頭の使い方をすることになる。というより、私はすべての書物をボルヘスの作品を読むときのような読み方で読むことが理想でもあるのだが。

ボルヘスの文章には、常に読者を迷宮に包み込みながらも、同時に物語の外へ外へ押し出そうとしている、両端のせめぎ合いが感じられる。

 

 

ボルヘスやミヒャエルエンデ、トーベヤンソン寺山修司ユング二階堂奥歯などの文章が自分には何故これほど魅力に映るのか

ひとつ見えたのは、それらが演劇や寓話を読んでいる感じに近いということだ。

彼らの作品に登場する人物は(物さえも)

自我はどこにでも移り得るものだということが前提にある印象を受ける。

とにかく自我というものは簡単に同化する。

同じ笑みでも次の瞬間には私のいない笑みになることだってあり得るのだし、

物という無機物だって引力などなどによって、さざれ石の巌となりて……なのである。

その瞬間に、そのものがそのものとなっているだけだと。

 

 

ボルヘスの文章は情報量が多いが、それは瞬間瞬間をスライスして、あらゆる次元を分岐し詰め込むからだ。

これは最近私が読んだヴァージニアウルフもそうだった(ということはこの辺の文学はそういう作品が多いのか?)が、

外面的には殆ど変化していなようにみえて、一瞬のあいだにある、異なる次元での烈しい内面の動きが描かれる。

 

 

ボルヘスが愛読していた本のひとつにマイリンクの『ゴーレム』があるらしいとの情報を最近得た。

ゴーレム (白水Uブックス)

ゴーレム (白水Uブックス)

 

 これも主人公の自我がページによって別人になっているらしい。

 

月の光がベッドの裾をこうこうと照らし、まるでそこに大きな、澄んだ、平らな石があるかのように見えている。

人が老年を迎えると、まず頬にしわが現れ、やがて顔全体が衰えていくように、満月がその姿に張りを失い、右側から欠けはじめると、__そんな夜ふけには、いつも、ぼくはよどんだ重苦しい不安にとらえられてしまう。

僕は眠っても醒めてもいない。そしてなかば夢見ごこちのぼくの心のなかを、いつか直接に体験したり読んだり聞いたりしたものが、そのさまざまな色彩や明度のいくつもの流れが、ひとつに混じりあって流れていく。

マイリンク『ゴーレム』

 

 これはほんの冒頭部分だが、数日前に試し読み部分を読んだだけで私はあれからずっとこれを音読しては悶絶している。

月、ベッド、ぼく、のみのモチーフで揺れ動く情動を、こんな風に万華鏡みたいに次から次へと連想していく文章で描くことが可能なのか。シンプルで透き通って、豊かだ。

詩に近い小説が好きだ。

最近私は詩を読もうと、少しずつ捜索しているのだが、自分にあった詩がなかなか見つからない。

耽美に陶酔していない詩を見つけるのが難しい。

そもそも耽美とはなんなのかよくは分かっていないのだが。

耽美はイノセンスに近そうだとも思う。

陶酔した耽美は、勘違いしたままのイノセンスと似ている。これは読むのが億劫だ。

私が求めているのは止まった耽美とイノセンスではなく、流れる耽美とイノセンスだ。

 

私は、耽美、イノセンスのなかに無慈悲さがあるものしか読まない。

無慈悲さはやはり文章にも現れる。だからそういう文章は、淡々として、ひとつのことを間延びさせない表現になるのだと思う。

 

こういうものが恐らくボルヘスの作品の底にも流れているのだろう。

心の中、奥底にある、忘れられない、イノセンス

傷つきながらも無慈悲に下る現実によって変容し続けていくそれら。

 

 

ラジオ形式でもボルヘス『伝奇集』。

 

現代版ヨブ記『宝石の国』

 

 

数年前にアニメを観たときは脳無しの私には高度すぎた作品があった。

しかしこの作品は( 数話しか観ていなかったにも関わらず )

その後私が心理学を学んでくなかで

目に見えない心のメカニズムを掴んでいく重要な足掛かりを残してくれていた。

 

宝石の国 」だ

 

宝石の国(10) (アフタヌーンコミックス)

いつかきちんと読みたいと思い続けていたら、ツキが巡ってきたのか優しい人が最新刊まで貸してくださいました。

10巻まで読んだので今回は現時点でのレビューを書きます。

 

とにかく能無しだった私には分からなかったこと、

宝石の国がよめなかった理由は。

フォスを自分に重ねてみることが耐えられなかったからだった

あとで考えてみると肉体と魂を別々にしているとことか主人公がめちゃわがままなとことか、すごい分かりやすかったし参考になったのである。

私は

” 私は勿論、魂と肉体が一致した人間であるし、生まれて間もなく人格者だったに違いない "

などととんでもない思い違いをむざむざと起こしていた。

 

それは幻覚なのだった

ほんとうの私はフォスなのだ、というよりフォスにならなければならない

 

 

宝石の国 」の世界観には無慈悲さ、あっけらかんとした( 鉱物らしさ )があり、

低俗レベルでの " 情念 " がほとんどないので( そのかわり最強の情念は描かれる…例えば諦めが悪くどうしても特定の事象に引き寄せられてしまう宝石たちや、月人のうち特別の地位にいる人が地上に降り立つと鬼の形相になっていることなど )

無駄がなく核を貫き続けている。

そのため、精神のエグさはエロティシズムに繋がるという構造がよりはっきりとしている。

間髪入れずすり潰されていき、グロテスクで美しい作品だ。

 

 

主役のフォスフォフィライトは、物語が進んでいく毎に

必要に応じて次々に身体( インクルージョン、精神面も )を挿げ替えていき、時には誰かの面影を取り込み、ますます複雑な結晶体へと変容していく。

 

純粋な人ほど、生きていく過程で自分をすり減らしていく感覚は、誰にでも身に覚えがあることではないだろうか?

 

 フォスの体験は何となく「 ヨブ記 」に通ずるものがあるような気がする。

この物語ではフォスが唯一、魂( 片目が月の成分 )と肉( ナメクジに取り込まれた )と骨( 彼の祖先は元々骨 )の3つを兼ね備えた人間になれた者であり、誰よりも清く正しい。

※肉について・・・肉族( ナメクジ )が海≒無意識に取り残されたことは興味深い。いったい肉体という檻を意識化できている人間はどれほどいるのだろう。

そのような「 肉体 」をもう一度高次元で再生しなおす( ナメクジに一度取り込まれ、採掘される )ことでフォスにとって「 肉体 」がやっと存在する概念となる。

※魂について・・・フォスの片目は月に捉えられ、( 月の成分でできたものになり )

フォスの視点の半分は地球の外側( 彼岸、冥界 )に中心を置くようになった。これで彼は世界を陰陽の両方で眺めることができる者になる。

 

人が魂や肉体をひとつにするとき、

無意識から意識へ目覚めるとき、

まるで水から浮き上がったような感覚になる。

フォスのように何度も水に潜ったり浮き上がったり

冥界( 月 )へ行ったり帰ったりすることで、頭が冴え冴えとしてくる。

 

柔軟に変容し続け、己が擦り切れ、一本の細い繋ぎ( ≒膠≒この作品では骨 )となっても保ち続けるフォスはどこまでも透き通っていて

恐らく彼が行きつく先は地獄なのだろう。

 

よく考えたら斬新な作品だ。

これまで変容を促す石( 賢者の石 )はあくまで力を秘めた道具として登場するのが常だったはず。

宝石の国 」は、本来なら意思を持って動かないはずの石を主役に置いたわけだ。

変容そのものを描くには一番シンプルな発想だったのかもしれない。

※石は石でも金剛先生が整形した時点で既に石そのものではなくなり、人間へ戻るスタートはきられている。

 

 

ここからは蛇足なので暇な人だけみてくださいな。

密かにカンゴーム推しだった私は、月へ行ってからの彼の変貌ぶりに心乱されて

王子とカンゴームの結婚という流れには頭の整理が追いつかなかった。

のでその整理を兼ねてここにゴチャゴチャと書いてみよう。

 

物語に「 結婚 」というモチーフが出てきたときに作者が読者へ期待している効果とは ” 相反するものの一致 ”というメタファーを読み取ってくれるか感じてくれるかすることである。

 

宝石の国 」では、人間を構成するのは魂、骨、肉体だった。

錬金術では骨が膠に相当し、後に賢者の石( 宝石 )がその変容を促す役割を担うようになる。

ここまで考えると、普通の流れでいけば「 人間になりたい 」願望を抱くので

魂( 月人 )と肉( ナメクジ )が骨( 宝石 )の力を介して結婚( 融合 )する展開になるのだが

王子の場合、

視点が肉体を離脱した魂( 月人 )なので、当然少し上の段階の願望になる。というわけで月人は恐らく人間には戻りたくない。

とすると、無になりたい王子としては石に惹かれるのは、わりと理に適っているのである。

それにしてもカンゴームの願望は私には少し複雑に思える。

彼は石なのだから( わりと自我を持っているけど )、石が無になりたいと言うのはなんだか可笑しいことのような気がする。

すり潰されてしまえば、無になれそうなものではないか?

でも王子と一緒でなければ意味がないと。うん、複雑だし貪欲だな。

 ※人が変わるのは、石が変わることと同じ。 宝石が意思を持って変容するのは、人の心が変容する過程と同じ。

カンゴームの変容は、作者が描きたいことと一致している。

 

 

しかし王子とカンゴームの恋愛は無を目指す恋愛であり、センスはかなり良いのだ。

自己の拡大のための恋愛ではなく、自己の放棄のための恋愛である。

 

 

心の故郷はファンタジー

 

 

「 1つのことをすごく探求するね 」とよく言われることがある。

自分でもそうなのだと思っていたが、なんとなく腑に落ちなかった。

飽きやすい私はそんなに長いときをかけて1つのことにかまけていることが無かったはずなのに、結果的には幅広く深いところだけを知っていることになっている。

 

私はここで言われている" 探求 "はしていない。

「 見え方 」の違いだろう。

通常人は物を見るときには" 表面 "を見ている。

私はこのとき恐らく、初めから" 内面 "を見ている。

だから初めから深淵を覗いていることになる。

私には表面が問題でない。表面を突き破り、透視してしまう。

こんな見方をしてしまっている。

 

" 探求 "と言ったときに想像するのは

表面から内面へ降りていくイメージだが

私には一度見ただけで底がうっすら見えている。

内面から表面がやっと浮き出てくる。

だから私の場合は、輪郭が最終的に出てこなければならない。

 

 

人間には肉体的な故郷とは別に、霊的な故郷がある。

霊的なとは魂的な、精神的なという意味で。

人は誰しも詩に包まれていることで心は生き永らえている。

私にとっての心の故郷は「 ナルニア 」だった。

それがなければ、死んでいた。

人は肉体だけであっても心だけであっても生きていけない。

 

 

いつも傍らにはファンタジー( 物語 )があった。

そのおかげで救われたけれど、私の物の見方が普通と逆さまになったのは、主にこの影響だったのだろう。

 

絶対にファンタージエン
行けない人間もいる。

行けるけれど、そのまま向こうに
行きっきりになってしまう人間もいる。

それからファンタージエンにいって、
また戻って来るものもいくらかいる、

君のようにね。

そして、そう言う人たちが、
両方の世界を健やかにするんだ。

 ミヒャエルエンデ「 はてしない物語 」より

 

 

 

最近は年々ストーリーがどうでもよくなっている。

登場人物とか出来事とか。

そんなのは記号に過ぎない。

そうではなく、永遠のなかにある一瞬についての散文が読みたい。

 

1級の作品にはストーリーに動きがほとんど無いと、どこかで読んだ気がする。
ヴェイユの散文には
「 二流の作品は自己の拡大、第一級の作品すなわち創造は自己の放棄である 」

とあった。

 

 

このままいくと私は聖書や詩だけで満足するようになるかもしれない未来がみえたのだが、それらの内容を理解するにはまだまだ修行が足りていなかったのであった……。

 

 

死んだ魚の目

 

 

「 私も昔、先輩に教えてもらったことがある。

干潮は人が死ぬ時間、満潮は子どもが生まれる時間だって。

患者の中に危ない人がいたときは、( 付近の海の )干潮の時間帯を調べてその時間までに仕事を片付けるようにしていた 」

 

看護師だった母に、私のお気に入りの詩を紹介したときの返答である。

 

どうしてそれを私が小さいときに話してくれなかったのか

 

私と

人と

地球の

生命の

関連性を

 

私が聞きたい話はそういう話だった

そういう話だった

どんな本よりも

どんな人よりも

私はあなたから物語ってほしかったに違いないのに

 

どうして今なのか

息切れしながら

待ち望んでいた物語を

今さら

 

 

世界における水分の絶対量は一定しているので、だれかが涙を流すと、そのぶんだけ、海の水が少なくなるのである。

海水も涙の成分は、ともに塩素とナトリウムとH2Oをふくむ。

なめると「 しおからい 」のは、そのためである。

ということは、涙で魚を飼うこともできるという証拠である。

だが、涙で一尾のカレイを飼うためには、どれ位泣かなければならないか、ということは、まだ学問的には立証されていない。

満潮は、ひとがだれも涙をながさぬひととき__世界に海水があふれ、

干潮は、ひとがみな涙をながすひととき__世界に海水が涸れはじめる。

( 以下略 )

『 かもめに関する序章 』寺山修司

 

 

寺山修司少女詩集 (角川文庫)

 

 

国内と海外のファンタジーの違い

 

 

海外( といっても自分でもどのエリアのことを言っているのか定かでない。恐らく北欧辺り )のファンタジーと国内のファンタジーではキャラクターの捉え方が違う気がする。

 

国内ファンタジー、特にアニメなどはそうだが……の、ファンがキャラに異様に感情移入する様はそれまで海外の児童文学ばかり読んでいた私には馴染みがないことだった。

 

海外、国内とはいえ色んな段階の作品があり、広く捉えれば境界線は曖昧になるのだろうが……

 

私にとっての国内ファンタジーの気持ち悪さは、作者・読者、両者の特定のキャラクターに対する思い入れの強さが露呈しているところだったのもしれない。

キャラに感情移入しすぎると、キャラ主体になり、物語が背景へ退いていく。

 

 

変わって私にとっての海外ファンタジーは、人間を、魂と肉体を完全に切り離して描こうとするので

作者視点( 神の視点 )では、

キャラを " 物語上の駒でしかない "という認識を

ある次元で持ちつつ描くことができている。

つまりキャラを人形として描ける、作品上の必要不可欠な役割を持たせて描くことができる。

 

日本のファンタジー( 広すぎてあれだけど )はキャラを重視しすぎている気がする。

もちろん海外のファンタジーでもキャラクター性は大事だが、それは物語があって必要不可欠に現れてくる性格だったり癖であって、始めに趣味趣向が詰まったキャラが与えられているわけではない。

 

 

価値観の違いかもしれない。

人物主体は実存主義に似ている。

しかし現代は " 敗北者 " の物語が待ち望まれていると言われて久しい。

 

私は使命を持って生まれた、使命を持って?

" 使命 " というと聞こえがいい。

" 空席を埋めるため " と言えばもっと真実に近くなる。

私は物語の駒でしかない。

私は演じ続ける。

空席を埋めることを要求され、諭され、

それに受動態でいるのは卑怯ということになっている。

 

 

《 追記 》

とかいいつつ、アニメが大好きな私もすっかりキャラクター重視の目線も併せ持つようになりましたとさ。

キャラクター愛もいいものです。

一応フォローまで。