創造

 

先日の記事では

自我が移ろいゆくことを前提にした文学について書いた。

このことを含む現象をボルヘスは『有為転変』と表現していた。

 

ういてんぺん【有為転変】 仏教のことばで、世の中のすべての現象や存在は常に移り変わるものであって、決して一定しているものではないということ。 「有為」は、因縁によって生じたさまざまな現象。 「転変」は、移ろい変わること。(Google辞書より)

 

少し前までの私は『自分が広がっていく』実感がなかったのが、意識があるまま死ぬことに半分成功した今となっては

人と会話している瞬間にも、まるで自分自身が相手に、その場にいる全員に、周りの空間に染み出している感覚が拭えない。

自分の分泌物を垂れ流しているような感じと言っていい。

そのことを理解できず無駄な堤防を己の周囲に張り巡らしていた以前に比べれば、それが実感となり言語化できているだけでも救いだ。

 

心底気持ち悪い。

自我が溶け出し、相手の深層へ染みこんでいき、自分にも染みこんでいく感覚は、エロティシズムに繋がる。

私はエログロそのものよりも、エログロを好む人、それらを作りだす人たちの心境に興味が湧いてしまう。

 

『エロティシズム』について研究したバタイユは、腐敗について無性生殖の、分裂することで殖える構造を示して分かりやすく説明している。

ひとつの個体が分裂して二つに分かれるとき、元あった個体の自我は存続されるのか?との問いにバタイユは『否』と答える。

無性生殖の場合、元の存在が死ぬことで新たなものが産まれるというのだ。

個体が分裂する途中の、分かれるか分かれないかの間に『死と生』が一体となった瞬間がある。

人間のような有性生殖は、個体から新たな生命が生み出されても、大体は死ぬことが無い。

故に『死と生』が一体となる過程は出生時ではなく、死後の腐敗にみられる。

 

こんなのは残酷だと私には思える。

無性生殖なら一瞬で起きることが、我々人間は『出生時に母体が生き永らえる』ためにゆっくりと腐敗していかねばならない。

ゆっくりと互いに滅ぼしあいながら、死へと0へと向かい続けなければならない。

しかもそのほとんどが『腐敗』ときている。腐臭を垂れ流しながら、生き永らえることのどこが地獄でないといえるのか。

 

 

ヴェイユの思想と活動は、それを真似しようとすれば、およそ人間を保つことが難しい。

九つある天使の階級のうち最高位の熾天使は、神への愛の焔で燃え盛っている天使だというが、彼女のような人をそう形容してもいいのではないだろうか。

スピリット的には近い位置にあったと思われる二階堂奥歯さんなど

ある面では、

彼らは潔癖すぎるが故に敢えて不浄なものを受け入れようとしているように見える。

 

自我が移ろいゆくものだということを受け入れることも

不浄なものを受け入れることも

透明になりたいという願い故。

人間になりたいのか、神になりたいのか。

恐らく、両方。