群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

煩悩が飛ぶアニメ かぐや姫の物語

 

 

私は雀の涙ほどしか映画を観てきてないし、観ても有名どころな作品ばかりなので、

今年観た「 ライフオブパイ 」と「 かぐや姫の物語 」で今までに観てきた映画のすべてがいとも簡単に色褪せてふっとんでしまった。

 

今日は「かぐや姫の物語」について書きたい。

 

かぐや姫の物語 [DVD]

 

映画では、原作の「竹取物語」の主役が翁からかぐや姫へ変更されている。

そしてこの映画は、貴重な女性視点の神話だった。

 

神話には" 女性視点の神話 "と" 男性視点の神話 " があると仮定すると、

 

男性視点の神話に描かれる女性は、男性の潜在意識にあるアニマ像なので、馬鹿馬鹿しくみえる(例えば踊り子などとして登場する)。

 

それが、女性視点の神話になれば逆に女性の潜在意識にあるアニムス像が描かれるので、間抜けな男性たちが描かれることになる……

 

のではないか。

そしてこれらはどちらの場合にも男が間抜けとか女が差別されているとかなんとかという次元の話ではなく、男女それぞれどちらかの主観が強いというだけだ。

 

かぐや姫の物語」において男性が間抜けにみえることについて(またそれ以外でも)岡田先生が非常に分かりやすく解説されていたので動画を観てみてほしい。

 

 

 この映画をひとことで表すと……

" 煩悩が飛ぶ物語 "だろうか。

私はこの物語によって魂が救われたような気がした。

 

同じ「女性視点」であることはもちろん、

映画を観る前に読んだユングの本に、自分は月人で、月に帰りたいと言って月の生活を夢に見る患者がいたという話を読んでいたこともあってか

精神疾患視点」の話としても大変共感した(劇中に箱庭療法も出てくる)。

 

映画のキャッチコピーに「かぐや姫が犯した罪と罰」とあるが、

つまりは(かぐや姫自身が)生まれてきたことが罪で、生きることが罰ということだとは思う。

これはかなり普遍的な主題で、生きることが本質的に向いていない人だとか、苦しみ抜いた人なら誰でも行き着く思想だ。

 

※因みにひとつも読んだことのないドストエフスキーの「罪と罰」について調べてみたところ主人公の名前ラスコーリニコフは、意訳すると「分裂する」だという。

 

 

かぐや姫が月へ帰るシーンで冠を被るところは個人的に印象的であったが
かぐや姫が無意識の人格に主導権を明け渡す象徴がきちんと描かれている。

 

ジブリ映画で
千と千尋の神隠し千尋はトンネルを抜けるまで後ろを振り向かないし、魔女の宅急便のキキは、影の自分であるジジと喋らなくてもやっていけるようになる。

これらは始めから終わりまである人生の、いわば一瞬の出来事であり

地上に残り、生きることが目標である。

 

ところが、かぐや姫は完全に魂と肉体が分離した。

生きることを高次元に肯定しつつ、そう、苦しみながら肯定し、否定し、その矛盾(葛藤)は生きることそのものだ。

そして最後はやはり半ば強制的に(でも自発的に≒運命≒月の引力)死の国へ帰っていく。

 

この複雑性はなかなか人を選ぶ映画かもしれないが、響く人には響くだろう。

心が透明に透き通っていく映画だった。

 

 

 

 

 虚無仮説 / Music&Lyric : Ponz

 

 

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