群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

さらざんまい 欲望解消の儀式

「さらざんまい」でもそうだが、最近はなんだか「繋がり」をテーマにした作品を度々目にする。たまたまなのかもしれないが……。

 

「繋がり」と一口に言っても胡散臭く聞こえてしまう。そのくらい、現代では「繋がりとか絆」なんてものは鬱陶しがられるし、簡単には信じられなくなった。

 

「繋がり」には多次元的な意味がある。繋がりには、パラレルワールドのように幾つもの層があると私は思う。

 

「さらざんまい」でトオイは言う

「誰だって、切れてから繋がっていたことに気づく」

目に見えやすい繋がりが絶たれたとき、ひとは深いところですべては繋がっていたのだと気づく。

目に見える繋がりは、現代では「当たり前」になってしまっている。

繋がっていることが当たり前、生きていることは当たり前。

そんな繋がっているのか繋がっていないのか、命の感覚が麻痺している現代は

「絆」以前の問題なのだ。

そこでいま「繋がり」の意味を根本的なところから見直す必要があるのかもしれない。

 

 

 

ウッドラフの原生動物を使った実験でこんな結果がある。

 

自らの新陳代謝が蓄積された培養液の中では必ず死んだはずの個体も、遠くはなれた血縁の種の老廃物で満たされた液体のなかでは、立派に繁殖した。

このように、そのまま放置された滴虫が自然死をとげるのは、自らの新陳代謝の産物が十分に排除できないためである……

 

始まらず、終わらない者たちにとって

繋がることは苦しいことだ。

でも生きることは繋がることで

私たちは死んだまま生きるのか

魂を輝かせて本当の自分を生きたいのか……

 

魂を輝かせたいなら欲望を繋げ!と言うのだ。

そのためにこのアニメでは「欲望解消」の儀式が行われる。

 

①カパゾンビの裏側に回り込み、

②欲望エネルギーである尻こだまをかっぱらって呑み込む

③自分たちの欲望を漏洩

④欲望エネルギーがケッピに転送され、欲望は解消される

 

自分の新陳代謝(欲望)に埋もれて死んでしまう前に、他人(カパゾンビ)の欲望を媒介にして、自分の欲望を解消していく他ないのだ。

 

そうして悟りを開いていけと、「さらざんまい」は言っているのだと思う。

 

自我論集 (ちくま学芸文庫)