群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

さらざんまい なぜサッカー?

「さらざんまい」で観賞中ずっと違和感だったことが、今回新たに分かったことがあるので書いてみる。

 

ずっと気になっていたこと…

それは

なぜ"サッカー"をカズキたちの共通項にしたのか?

 

繋がるという意味で

 ボールゲームを使ったとすると、サッカーではなく野球でもバレーでも良かったはずだが、

なぜよりにもよってサッカーなのか?

というか、そんなことをいい始めたら切りがなさそうだが……個人的にあのアニメで「サッカー」は結構浮いて見えてしまったのだ。

サッカーしようぜ!ってなんでそんなにサッカーサッカー……

なぜここまでサッカーにこだわるのか??

私には気にって仕方がなかった…(ボール以外にも繋がるという意味合いの共通項は他にも沢山ありそうだし)。

 

そこで色々調べてみると

幾原監督が影響を受けたとされる寺山修司さんの著作「書を捨てよ、町へ出よう」にヒントが隠されていた。

 

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

 

以下本文抜粋。

 

私がサッカーを愛する何よりの理由は「にくしみから出発した競技」だということである。蹴る、足蹴にする、という行為には、ほとばしるような情念が感じられる。

 

大きいタマ(サッカーボールのこと)は男性的である。それは性的時代の象徴であり、
いかにも英雄的に見える。そして、大きいタマこそは、
世界を制するための条件の一つなのである

 

同じ蹴鞠(けまり)あそびでも、それをサッカーやフットボールとして育てていったヨーロッパ人は、先ず、境界線を作ることからはじめた。
敵地と味方。―白い線でフレームを限定し、ルールを作っていくのは、地つづきに他国を隣接している民族、交配によって繁栄してきた牧畜民族の必然であったのだろう。

なにしろ、ヨーロッパのボール遊びは、ルールによって国家を形成し、その中で個(頭蓋の喩えとしてボールのような)運命をもてあそぶ、ところが、わが国の手毬つきなどは反復と転生によって生きのびてきた農耕民族の作り出した家のまわりの遊びである。

はじめから境界という概念がなく、ただ繰り返す....。

少しでも遠くへ『邪魔な頭蓋骨を蹴り飛ばしてしまおう』というサッカーの『愛国競技性』にくらべれば、手毬は悲しい遊びであることがわかる。
それはひたすら同じところにとどまって、何かを待ち続ける歴史の比喩である。

 

なるほど。これでサッカーを中核にしなければならなかった理由がほぼ分かった。

ちなみに、寺山さんはサッカーと野球を比べて「ホーム(家)ではなくゴールへ向かう」と強調しているので、やっぱり野球でも駄目なんだということも分かる。

「サッカーボール≒大きなタマ」であることから、「尻こだま≒欲望」のテーマにぴったりだったのだ…というかそこが狙いだったのだろう。

 

ボールゲームの起源が外国と国内で「境界線」を張るか否かの違いがあるように、

「さらざんまい」は

「手鞠なんかしてないで、サッカーしようぜ!」というアニメだったのか……。

 

何度でも境界を越えて、虹色の君になれ!


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境界を超えなければ、分からないことがある

欲望に忠実であれ