群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

さらざんまい 白と黒

幾原監督のアニメ「さらざんまい」をようやく観たので感想を書く。

とはいえ深い考察は既に多くの方がされているので置いておくとして、

私自身このブログで度々テーマにしている、"白と黒"についてアニメを参考に改めて考えてみた。

 

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ケッピの言う「絶望のあまり、尻こだまを2つに割って」生じた"白と黒"。

 

絶望とは「極度の抑圧」だ。

極度の抑圧をかけられると、人間の心は2つに割れる。

 

さて、何故「絶望」で2つに分かれなければならないのだろう?

 

 

輪るピングドラムの劇中句を借りるならば、

人間はどんな状況でも「生存戦略」をしている。

 

生き残るために「自己犠牲」をとるのだ。

それは

トオイの兄(悪いやつが生き残る😎✨byトオイの兄)のような「殺す側(黒)」になるか、マブのように「人形(白)」(人形焼き、食うか?👓✨byマブ)になるか…

"究極の二択"を迫られることである。

 

 しかし、どちらを選択した場合も

無意識に抑圧されたことは、無かったことにはならない。

生きているかぎり選ばなかったことは無意識で働いている。

 

白を選び、レオの人形になったマブは、生きるためにはマブを偽り続けなければならないし

黒を選んだトオイの兄は、弟の存在(良心、白)が兄を生かすので、弟を殺すことは自らの死を意味している。

 

このアニメで"白"に相当するキャラクターは

白ケッピ、マブ、トオイ、カズキ…などである。

彼らは、自分を削って生きることを選ばざるをえなかった人々だ。

トオイは一見"黒"にみえるが正確にいえば"黒になりたい白"である。トオイの兄が"黒"を選んだので、その生け贄として"白"にならざるを得なかったキャラクターだ。

 

カズキとトオイは、

どちらも円から絶ちきられた存在であり

自分を捨てることに慣れてしまっている。おかげで身体があまり大事に思えない。

命さえも。

自分がはじめからいない方が丸くおさまると思っている。

そこでどんどん手放していく。

手放していって、はじめて自分の本当の欲望に気づいてしまう。

 

また

トオイと兄の関係性を描くことにより、

"白と黒"の境界が曖昧になってくる。

トオイは「兄にとっては白」だが、

兄についていく決心をしたトオイは、必然的に兄との同一化を望むので、「白→黒」になろうとする。

トオイを白だと思っていた(というより白であってほしいという願い)兄は、弟が銃を持っていること(黒に近づいている)を知り、疑念が生じ、死んでしまう。

 

レオマブの描写でも白と黒の曖昧さが出てくる。

 

一度割れてしまっても、もとに戻ろうとする力が働いてしまうのだ。

本当は白黒に割りきれるものではない。

だから白も黒も受け入れる必要がある。

 

物に囲まれ、自然との調和も忘れ、ネットで繋がることも切ることも擬似的に可能な、

様々な欲望に渦巻く現代は、愛も欲望も混沌とした世界だ。そのなかで存在が危うくなっている現代人は本当の望みが分からなくなり、白と黒の二極化へ近づいている。

 

このアニメは「始まらず、終わらない」者たちへ「欲望の河を渡れ!」と呼びかける。

一度死ねば、またはじまりがやってくる。

そのときはじめて始まることができるのだ。

人生は終わりとはじまりの連続で、まるい円で繋がっている。

本当の自分に会うために

境界を越えて、また帰ってくる必要があるのだ。

 

「もうたくさんだ!」「お前らとは絶交だ!」「もう二度と会うもんか!」

 

本当は愛しているのに、レオを嫌いだと偽り続けたマブ。

繋がり、欲望、愛、ジレンマ、絶望、自己犠牲…

「大切なひとがいるから悲しくなったり、嬉しくなったりするんだね。そうやって僕らは繋がっているんだね 」

 

感情を殺さないでいい。自分を殺さなくていい。

黒か白にならなくていい。

感情には濃淡があり、

人間は本来、虹色なのだ。

 

恥もねじれた欲望も、その都度解消していけばいい。

本当の欲望を貫くために。

 

そんなことを真剣に描いてくれたアニメでした。

ありがとうさらざんまい!