群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

元型論、ライフオブパイ

因果関係で考えることに慣れてしまうと、人はすぐに答えが欲しくなるらしい。

直線的な考え方が人気を得る。それが生存戦略になる人もいる。事実私も前半はそうだったし、そのおかげで自分の心を置いていく羽目になってしまった。

 

スピリチュアルとか宗教とかの話がでたとたんに胡散臭い感じがしてくるのは何故だろう?では、そんな人が何故クリスマスを祝うのかと聞かれたらどう答えるのか。無宗教ですと答える人は、自分が無宗教という宗教を持っていることには気づいていないのか……。

 

有名な物語を見てみると、血縁だとかコンプレックスだとか、そういうのがテーマのものが沢山あったりする。

心の動きを研究すると、必然的に万物との繋がりを思い知らされる。

それは私が私を見ている世界であり、あれがなければこれもない、という二律背反の世界である。私が操縦しているように思えて、事実はその逆であったりする。

 

この世は転移が転移を呼び、認識もそのごった煮のようなもので複雑なことになっているのだが、

ではその結び目をいちいちほどいていくにはどうすればいいんだ。混沌の中には必ず法則が見つかる。そんなこと気にするなという人もいるが、私にとっては死活問題なのだ。心を無視して普通に働こうと試みたこともあったが、上手くいかなかったし死ぬところだった。

 

話がそれたが、結局は自分の真実を見つけていかねばならぬ。私の場合には、無意識、遠回り、無用の長物などに秘密が隠されているらしい。

まったくもって合ってない。合理的主義が尊重される現代に合ってない。なんてことだ。

 

昨日ユングの「元型論」をようやく読了した。

元型論

個人個人、無意識の闇に隠れているものは当人たちには思い付きもしない。周りから見れば明白なことでも。

しかしその無意識に隠れたもののなかで、乗り越えるべき事柄が葛藤となって起こってくる。

解決の糸口というものは、当人たちにとってははじめは理解できないイメージのようなもので、大抵それは「どうでもよさそうなもの」である。

意識化されたものが普通になるのであって、無意識の闇に隠れて靄がかかっている、意識されていないものは、はじめは理解されない。

でもそれを認識するためには遠回りが必要だ。

だから一直線では無理なのだ。わからないことがわからないままで解決することなんかひとつもない。

葛藤は白黒決めることが目的ではない。その背後になにが隠れているのか、どのような心の動きがあるのか、見えなかったものが見えてくる。第3の事柄が産まれてくる。

ユングの文章からまたもや

自分と向き合う勇気をもらった気がした。

 

 

自分の真実を見つけることは、自分の中の猛獣と闘うことでもある。

「ライフオブパイ」は虎と少年の漂流物語であるが、意識と無意識の話としてとても良くできた話だった。

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自分の内面の百獣の王を何によって従わせるのか?

それぞれの神かもしれないし、信じる人かもしれない。

けれどもパイは多神教で(しかも神に見放され)、自分自身しか頼れる者はいなかった。

この映画のメタファーとしての虎は本能、少年パイは理性を表す。

内面の世界では、意識とは広大な海(無意識)に浮かぶちっぽけな船でしかなく、

本能である虎が大船を独り占めし、理性であるパイは付属の筏でゆらゆらしている有り様なのだ。

このような条件下でどのようにしてパイが自分の内面の成長を遂げるのか、真に迫った内容だった。

忘れてはならないことは、虎(本能)は飼い慣らすことはできないということ。敬意を持って訓練することはできるが、決して嘗めてかかってはならないのだ。それは自分ではどうにもならない運命とか、普遍的無意識とか存在そのものである。