群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

星史郎と昴流と眼の魔力、そして蟲師

おとぎ話や神話は、人の心の動きの産物であり、そこには意識と無意識の関係が如実に現れている。

例えば「片目の人間が何度も殺しにやって来る人間に悩まされる」という筋のおとぎ話がいくつかある。

 

ここでの片目の人間とは、心を半分置き去りにしてきた人間のことである。そこでもう半分の、生きてこれなかった自分が殺しにやって来る。抑圧された、生きてこれなかった自分とは、現実では敵として、葛藤として現れるからだ。

 

これをclamp作品での昴流と星史郎の関係性に当てはめて考えることができるが、clamp先生たちの解釈がまた複雑で面白いのだ。

 

 

おとぎ話では

半分の人間(片目)を殺しにやって来る人間

という配役が、

clampでは

半分の人間(純粋、素朴)が殺し屋(片目)に惹かれていく

ので、

殺し屋が殺しにやって来るというより、半分の人間が自ら殺されに行くという構造になっている。

 

また、殺し屋が片目になるのは、昴流を庇うため「必要悪」として描かれている。

また、2人(黒白)の中間役として(グレー)北都ちゃんが置かれていることもclamp独特だ。

彼女が後々、星史郎に「呪い」をかける。

この呪いは、「北都を殺した方法と同じ方法で昴流を殺そうとしたとき、その術が返り、自滅する」というもの。

これは、現実で敵として現れてくる人間はどれもこれも自分のなかにある抑圧が具現化した投影なので、それを見極めたときに抑圧が消えることを示唆している。

 

東京BABYLON―A save for Tokyo city story (4) (ウィングス文庫―Wings comics bunko)

 

片目繋がりで、

蟲師の「瞼の光」の場合は、

片目どころか両目を失った少女を、片目を失った経験のあるギンコが救いにくる話だ。

 

ギンコの生い立ちは、森のなかをさ迷い、月が沈んでもまた昇ってくるのは月……という幻覚に満ちた生活を送ってきた……というような描かれ方をしている。

その後、ギンコは水に映った自分を見て片目を失っていることに気づくのだが、これはかなり異質だ。

通常なら、水に映るのは醜い自分であり、水に潜ることで片目や片足等を失うのだが、ギンコの場合は水に映った時点で既に片目を失っているのである。

戦う前に淘汰されてきた境遇だったのだろうか。

 

蟲師(1) (アフタヌーンコミックス)

 

このように"眼"というものは冥界と物質世界の関わりのなかで重要な意味を帯びるもので、魔術的な意味を持つ。

そして、

無意識に抑圧されたものと、意識の関係は必然的に互いに引き合い、二律背反の関係に余儀なくされているのだ。