群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

inside

ユングの「元型」について、

先の記事であえてトラウマの元を「元型」として人格化し、「元型」に操作されている状態から、主導権を取り返すのだということを書いた。

 

「元型に操作される」とは誤解を招きかねない表現であるので、少し補足しようと思う。

「操作される」といっても、自分以外の何者かに責任転嫁をすることが目的ではない。

「元型」を可視化することはあくまで自分を客観視するための必要な過程の一部である。

 

人は多かれ少なかれ、遺伝子やら宿命やら、人間の意識外にある(人ならざるもの)「元型」に支配されているのだが、

それを理解することは人間には到底及ばないことを知りつつ、敬意をもって研究するならまだしも、軽い気持ちで自分がその力を得ようなどとすれば、「元型」に飲み込まれてしまうのだと思う。

何故なら私たちは自分たちの意識さえ、それに包括されているのだから。

 

これについて分かりやすい例が「inside」というゲームにみられる。

「inside」の世界観では、人間は「人を操作する側」と「魂を抜かれて操作される側」とに二極化されている。

プレイヤーは、上の二極のうちどちら側なのかは不明だが、意志を持ってひたすらある目的に向かって逃げ続ける「少年」を操作する。

 

さてここで既にシステムが「入れ子構造」になっているパラドックスに気づくだろう。

意志を持っている「少年」さえ、プレイヤーによって操作されている。

 

 

ゲーム内で、「操作する側」はあるヘルメットのようなものを頭に装着することによって、「操作される側」の人間を思うままに操ることができる。

これを二段構えで応用すると…

①まず「操作する側」の者がヘルメットを使って「操作される側」の人間を操り…f:id:psychocats:20191209093035j:image

②その「操作されている人」が別のヘルメットを装着することによって、更に別の「操作される側」の人間を操ることが可能になってしまう。

f:id:psychocats:20191209093118j:image


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つまり、「自分が意志を持って操作している」と勘違いしたまま、実は「操作している気になっている自分さえも何かの力によって操作されている」ことが描かれている。

 

包括されていることから逃れることは永遠に叶わないが、だからといって何もするなということでもない。

人の意識の外にあることを理解することは不可能に近いのだと、意識しているのとしていないのとでは全然違う。

そうではないだろうか?