群青とセピア

夕泳と申します。作品のこういうところが美しい!ということを語ります。基本的にネタバレあり。コメントご自由にどうぞ(^^)d

元型

トーベヤンソンの短編のひとつに、狼を従えた少女が登場する。少女は狼を手懐けているわけではなく、あくまで自然のまま、狼の自由を尊重したまま、緊張感のある信頼関係を築いていた。だが、第3者がその狼に餌を与える癖をつけてしまい、狼は猛獣化する。

かくして狼と人の関係は主従関係になった途端に、それまでの信頼関係が破綻してしまうのだ。

 

このことについてしばらく考えていたのだが、狼(が猛獣化すること)が上橋菜穂子の「獣の奏者」を思い出された。

 

獣の奏者 I 闘蛇編

 

 

獣の奏者」の王獣は、恐らくユングでいうところの「元型」ではないだろうか。

元型とは何か。

個人のトラウマの原因をもっと深く掘り下げると無限退行論に陥るが、私は元型がその救済処置みたいなものだと考えている。

つまり、トラウマに固執する原因となったもの、習性や宿命とも言えるようなものである。

ユングはそれを可視化するためにあえて「元型」と名付けた。

私たちがトラウマに悩んでいるのは、元型に操られているからだ、ともいえるのである。

自分を制御できないものを可視化することによって、はじめて自分自身と向き合えるのだ。

 

元型をコントロールすることは難しい。飲み込まれると、私たちは自分自身をコントロールできなくなり猛獣化し、自分でも思ってもいない行動をしてしまうときがある。

文字通り獣に食べられてしまう。

 

獣の奏者」のエリンは、王獣を称え、自然のままを尊重し、決して依存しない関係を築く。そうすることで獣を"奏"縦する。

 

これでトーベヤンソンの狼と少女の短編の意味がようやく自分なりに説明がついたと思う。

 

しかしこのことでまた気になることがあった。

ユングのいう元型は可視化しているとはいえど、殆ど人間の意識の外側にあるもの。

そのためそれを完全に「言語化」することは不可能に近く、また(どんなことでもそうだが)理解した気になることは危険である。

ましてや手懐ける感覚は、あまり良くないのではないだろうか。

 

この世には苦しんでいる人々を救済するといってイカサマ宗教やなんやかやが横行しているが…。それが必要な人もいるのだし

需要があるから供給があるのだと、仕方ないこととはいえ…

人間の意識の外側にあるものをお金で売買したり"操"縦したり、はたまた"操"縦する方法とやらを伝授したり…。

自ら身を危険に委ねるようなことが罷り通っていることが残念でならない…。